てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

3日間、朝の寺で一人で坐禅して感じた『桜の花びらみたいな人生たち』

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いつもの寺の境内で、朝8:30から3日間連続で一人で坐禅をしてみた、その2日目のことです。じっと坐っていると、どこからともなく舞い降りる桜の花びらを視界に端に捉えました。坐禅中は視線を落として無心になるものなので、宙の花びらに気を取られてはいけないのですが、まあ、春です。風情があるのでそれをぼんやり眺めていました。

そして、眺めてるうちに、ふと、こんなふうに思いました。

わたしたちの人生って、まるで桜の花びらみたいだ。

枝から離れた花びらは地面に向かって落ちてゆく。いずれ地面に着く。人は生まれた瞬間から死に向かって不可逆的に進んでいく。いずれ死ぬ。

花びらの地に落ちるまでの時間は一枚一枚ことなる。風に舞いゆっくり地面に向かう花びら、雨に打たれて真っ直ぐ落ちる花びら。花びらの命運を左右する雨風には意志はなく、それは偶然でしかない。人の運命もまた、多くは自分で操作できない。

わたしたちは、桜の花びらみたいな人生で、落ちてく速度は異なるけれど向かうところは一緒で、みんないずれは死んでいく。

 

こうしてブログを書いている間にも、わたしは死に向かってあの桜の花びらのように落ちているのだと考えると、一日一日がいとおしくなります。

それはそれで、悪くないなと思えます。

たぶんこんなことを思ったのは、お寺に向かう電車の中で『よく死ぬことは、よく生きることだ』という本を読んだせいだと思います。ニューヨーク在住のジャーナリストだった著者の千葉敦子さんが癌で亡くなったのは、本書が世に出て3ヶ月後の1987年4月のことでした。三度の癌再発。その闘病と命の記録です。

千葉さんは癌になって「あの人は行いが悪いから癌になった」という周囲の意識を感じたそうです。本人に原因があると。でも、ほとんどの人生の死は、その人の行いとはさほど関係がありません。ましてや癌はなおさらです。著者はヘビースモーカーですらありませんでした。

多くの人の人生は、たぶん桜の花びらみたいなものではなかろうか。と私は思ったのです。

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)