てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

坐禅は”自分”を解除する身体技法~『生死の覚悟』(高村薫/南直哉)を読んで~

今年刊行された『生死の覚悟』(高村薫/南直哉)を読みました。仏教とは、という宗教的な話が多かったのですが、わたしは宗教にはいまのところさほど関心がなく、やはり禅や禅寺に関する部分が強く印象に残りました。

特に、坐禅とは”じぶん”というものを解除させる身体技法であるという説明には「なるほど、そういう説明の仕方があるのか」と、蒙が拓かれた気持ちになりました。

一部を紹介しますと・・・・

南さんは「坐禅することが真理への道だ」と言うつもりはないそうです。ある身体技法を使うと自意識が大きく変容する、それを使えばそれまで苦しんでいた自己というものを一回解除する方法もある。みながこだわる自分というものにさしたる根拠はないことに坐禅を通じて知ってもらいたい。ただこの考え方は曹洞宗でも例外的なもののようです。

そして、坐禅を続けるのは自意識が作り物だということを確認し続けること。次に来たプログラムが絶対だと思ってはいけない。坐禅を維持するというのは、ある種の自己批判。そこからその都度、暫定的な新しい「自己」を立ち上げていく。坐禅をしてある程度のところまでいくと、簡単に自意識が変容するのを経験する。そうなると、どのような自分もまともに信じられなくなる。

・・・ということのようです。わたしのようにアタマで物事を考えるタイプの人間には、こうした言語化はとても受け入れやすいですね。また、わたしが日々の坐禅中に体感することとも一致しています。

もう一つ興味深かったこととして、南さんによると、禅宗の修行場として高名な永平寺の修行僧は1年目で目がキラキラと澄んでくるそうです。永平寺の1年目は、迷ったり考えたりをさせないシステムになっている。人間は強烈な縛りがかかると、実はものすごい自由を得る。迷いがなくなり、目がキラキラしてくる。永平寺の中では金や異性、地位と言った迷いの根本となるようなことを考えなくてすむ。そうすると、人間関係における揉め事は極端に減るそうです。ところが、3、4年経つとダメな人間は加速度的にダメになり、目が濁ってくる。自分の頭で考えて、きちんと問題設定できる人間だけが伸びていく・・・。

迷いがなくなると目が濁る、ということでしょうか。うーん、わかるようなわからないような。となると、迷いをなくすための坐禅が行き着く先は?・・・。

他にも印象的な言葉が沢山ありました。ご興味ある方は御手に取ってみてください。

生死の覚悟 (新潮新書)

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