てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

典座教訓によれば、ナスも龍もわたしも同じかもしれない

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今年初のセミの鳴き声を聞きました。ようこそ、夏。といっても、まだ梅雨も明けてませんけどね。

でも、1ヵ月半ぶりくらいに寺近くの市場に野菜を買いに行ったら、ナスとトマトだらけでした。

ナスナスナスナストマトトマトトマトトマトみたいな。

太っちょのナス、白いナス、長っぽそいナスなど、何種類ものナスがあったので、いくつか買ってみました。長細いのはヒモナスというそうです。二つ絡ませたら龍みたいになりました。龍ナスです。

最近、野菜を買って料理をします。ときどきですけどね。楽しいです。料理も楽しいですし、食材を選ぶのも楽しいです。禅宗のお寺では炊事係は「典座(てんぞ)」と言います。料理も大事な修行の一つと考えられており、曹洞宗を開いた道元は『典座教訓』という書を残しています。食も仏道も同じだよ、みたいなことが書かれていますが、その書きぶりたるや半端じゃありません。

例えば、こんな感じです。

『わずか一本の茎、葉とはいえ、荘厳な大寺院隣、たとい小さな根っ子、米粒でもお釈迦さまの大説法と変わらないのだ』(訳:藤井 宗哲)

え〜〜〜どんだけよ〜〜〜〜って感じですね。

それからこんなことも。

『典座というのは、一日中いかにして、その食材をどう生かしきるか、皆がいかに満足してくれるか、心をその一点に込め、ただひたすらに、煮たり炊いたりするだけだ。忘己利他、我をなきものにして、人々に心豊かになってもらう。この専一道心のみである』(訳同) 

これもなかなかハードル高いですね。ちょっとわたしはその境地にはいません。典座を務め食に通じていた故・藤井宗哲氏は著書「道元『典座教訓』」の中で、「食材を料理するのではない。宇宙と一体のわれを料理するのだ」と表現しています。

これはちょっとわかるかも・・・。料理している時って、けっこう無心で心地よいんですよね。ナスも、ナスが形を変えた龍も、それを料理するわたしも、料理している時は融解して同一になっているのかもしれません。