てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

朝の座禅、老師の本

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早朝、4時台、まだ夜の街灯の薄い明かりで街が霞みがかったようなオレンジ色をしているうちに布団から起き上がり、リュックを背負って寺に行き、お堂で座禅をするということを、この数ヶ月のあいだ何度か繰り返していて、座禅が終わったあとは、一駅分を南に歩いて、朝早くから開店している行きつけの料理店で朝食をとり、そこの外国生まれの店主と、すっかり暑くなってきましたねえ、最近はどうですか、などとたわいのない会話をして、そこからまた別のチェーンのカフェに入って、ノートパソコンを広げて午前中いっぱい仕事をするか、読まずに家で積み上げられていた医療雑誌業界紙を読むというのが、いつものパターンですが、一番心地良いのは、朝の境内の空気と座禅と朝食なので、それ以外はおまけのようなもので、眠い時は早々とカフェを切り上げて帰宅することもあります。

さいきん本棚を整理していると、やや埃をかぶった老師の本が薬学書と薬学書の間から出てきました。といっても、山村で生まれて寺小僧から叩き上げで名刹の管長に出世したこの老師は本を書くような柄ではないので、他者による聞き書きや対談の書き起こしではあるけど、老師の、老師らしい、飾らない、素朴な、世俗から離れて自分だけの道を生きてきた言葉の数々であることに間違いはなく、とくに、教えなどはどうでもよくて、とにかく坐禅をしなさいというような、あまりにみもふたもないようなくだりは、読んでいて思わずふふふと笑いがこみ上げてきます。そんな老師とはいえ、学問や信仰心を否定しているわけではなく、その証拠に、4年前の坐禅会の講義では「私の元に『宇宙から指令がくるんです』と悩みを持ってくる人がいる。私はその経験がないから『教えてくれ』と言う。みなさん、自分が抱える問題は自分で解決するしかないんです。座禅や信仰や学問は、その解決の一端になってくれるんです」と話していたから、しっかりと仏教徒なわけですが、老師の言葉は、禅において大切なのは物事を語るよりも坐ることであるという、只管打坐の原理原則に忠実で、身の引き締まるような思いをした私は、その本を読み返したその日から自宅のベランダで夜の座禅をまたやり始めるようになりましたし、早朝の座禅に出向くのが辛いときは、「大切なのは語ることではなく坐ること」という老師の言葉を思い返して、早起きにめっぽう弱い自分を奮い立たせています。