てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

初めての本を出版する朝に

f:id:kuriedits:20210618225120j:plain

6月17日のその日は、私がドラッグストアや薬局で処方箋なしで売られている薬、いわゆる市販薬というものについて書いた初の単著の発売日いうことで、自分でも気づかないうちに、やや緊張していたのかもしれません。床についたのが深夜12時、それから深夜2時に一度目を覚まし、もう一度眠りについたものの、結局目覚まし時計の設定時刻よりも30分以上も早い朝4時に起きてしまい、これ以上は眠れそうもなかったので、少し予定より早いけどせっせと身支度をすませて、早朝座禅会の開かれる寺に向かいました。

6月に入って勢いづいた、しかもこの日朝からの大雨で花びらをたっぷり濡らして例年よりもずっと色の濃く映った紫陽花が左右に咲く広い坂道を登ってお堂にたどりつくと、ちょうど作務衣姿の常連たちが、木造の格子窓や重厚な鉄門を開いているところで、私は後からこっそり混じって座禅の準備に入りました。

座禅中は呼吸の数を数えてください、10まで数えたら1から数え直してください、雑念を払うこの方法を数息観と言います。座禅会の当番を務める年配の仏僧が、この日の初参加者たちに説明する座禅の心得は、私がもう何十回も聞いたことのあるような、いたって平凡なものでしたが、この日に限っては、妙に私の心にひっかかり、ただひたすら呼吸を数えてはゼロに戻り、それを繰り返すという行為が、まるで賽の河原の石積みのように無情な行いのように感じて、不吉な連想が頭を離れなかったのは、やはりこの日の私がいつもよりもナーバスだったせいかもしれません。

座禅会を終えた足で、近くの神社に立ち寄り、「本がたくさん売れますように」とお賽銭をしました。それから、早朝から開店している食事処に顔を出すと、馴染みの女主人が「今日もお勤め(座禅)ですか?」と水を差し出しながら聞いてきたので、ええ、ただ今日は特別な日で、自分の本の発売日なんです、と答えると、彼女はとても驚いて、本の名前を教えてくださいと言ってきたけど、私は恥ずかしいからとそれには答えず、いつもよりちょっと値のはる朝食セットを注文しました。それから、すごいじゃないですか本を出すなんて、と言われたけど、私は自分には過分なこの褒め言葉を言われることがいつもとても具合が悪くて、あいまいな苦笑いをしながら店をあとにしました。

それでも、本を出版して嬉しかったことの一つは、こんなふうに私以上に周囲の人たちが喜んでくれたことで、特に実家の母親はきゃっきゃとはしゃいで、9年前に他界した父と、無類の読書好きだった祖父の仏壇に、わざわざ1冊ずつ飾ってくれました。私の実家は首都圏の、あまりパッとしない街にあって、にもかかわらず私が中学生から大学生の頃は、駅の西と東にそれぞれ中規模の書店があることが私のちょっとした街自慢で、時間があれば書店に行き、本棚を眺めながらひたすら時間を過ごすということをよくしていて、そんな私を見て母親は、あなたは暇さえあれば本屋をブラブラしているね、と呆れ顔で言ったものです。

ところが、まるで自分の書棚のように飽きもせず歩き回っていた書店も、月日は流れ、世間ではどこも書店の経営は苦しいと言われるようになり、一つの店は10年ほど前になくなって、そのかわりにパチンコ店ができました。そして残ったもう一つの、それよりもずっと古くからある、そして私が今までの人生で最も多く利用した書店は、色々店内を変えて、努力を重ねていたようではあったけど、ついに力尽き、2年ほど前に店を閉じました。ある日、母親からのラインで私はそれを知りました。駅前の本屋さん、店を閉じるんですって。寂しいよね。あなた、小さいことから、あの本屋をずっと利用していたでしょう。

もし、あの書店があと2年続いたら、自分の書いた薬の本が、あの懐かしい記憶の棚におさまるという、感慨深い場面に立ち会えたのにと思うと、残念でなりません。閉じた書店の跡地に、大手のドラッグストアが立ったことを母から聞いたとき、思わず口から深いため息が一つ漏れた記憶があります。