てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

大泣きしたクリスマスの思い出

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早く寝ないとサンタさんがプレゼントを持ってこないよ。まだ私が幼かった頃、父か母かのどちらかが、そんなことを言って、クリスマスイブの夜になかなか寝ようとしない私をたしなめたことがあります。両親は、きっと、さっさと息子を寝かせて、枕元にプレゼントを置いて、自分たちも布団に入りたかったのだろうと、いまになって思い出します。

「サンタクロースは存在する」ということを、私はわりと年長になるまで信じていました。小学生のとき、幼馴染のけんちゃんという男の子の家で、ふとしたことでサンタクロースの話になりました。お父さんが自営業で、大きめの家に住み、さまざまなビデオゲームと、たくさんの漫画本に囲まれたけんちゃんの部屋は、私にとっては羨望の的で、そのうえ算数が私よりもずっとできる賢い男の子だったけんちゃんが、「サンタなんていないよ」といって、サンタを信じている私をちょっと小馬鹿にしたようなことを言ったので、私はむきになって、サンタはいる!ということを言いました。何を話したのかは覚えていませんが、最後はけんちゃんも、サンタはいるかもしれない、と考え直すようになったと記憶しています。

ところが、それから数年して、なにかの機会に私はサンタクロースが存在しないということを知ってしまい、父親に、「サンタクロースっていないんだね。知らなかった。みんな知ってた。なんで教えてくれなかったの。信じてたから、けんちゃんにサンタクロースはいるって言っちゃったじゃない」と言って睨みつけると、「へえ。でも、けんちゃんがサンタがいるって思ったってことは、お前の説明に説得力があったってことだ」と話をすり替えられて、そこで話は終わってしまいました。

そういうわけで、私はサンタクロースの存在を、おそらく同年代の友達よりも長く信じていたのだけど、そのせいもあってか、毎年クリスマスは楽しく、親もサンタからの手紙を枕元に置く演出を続けてくれました。

しかし、一度だけ、クリスマスに大泣きした記憶があります。それは、私が小学校1、2年生くらいの時のこと。当時、私は友達の間で人気だったビックリマンシールを集めていて、お小遣いのほとんどをビックリマンシールに注ぎ込んでいました。シール集めに夢中になっていたその年の12月、私はサンタクロースにビックリマンシールをプレゼントして欲しいと願いました。たくさんのビックリマンシールが欲しい。レアキャラのシールが欲しい。サンタさんなら、きっとレアシールを届けてくれるはず。

そうしてワクワクしながら、家族でイブを過ごし、期待に胸を膨らませながら眠りにつきました。朝、目が覚めると、枕元に、プレゼントの袋が置かれていました。ビックリマンシールだ!いそいそと袋を開けると、しかし袋の中から出てきたのは、私が願っていたものではありませんでした。それは、見たこともないような、キャラクターもサイズもすべて不揃いの、寄せ集めのような、たくさんのシールでした。そして、ビックリマンシールは、たしか、一つもなかったと思います。私は、わけもわからず、大泣きしました。母親が「サンタさんは勘違いしちゃったんだね」となだめましたが、私は「サンタさんが自分のお願いを勘違いしてしまった」ということが、さらに悲しくて、悔しくて、ひたすら泣き続けました。こんなシールはいらない、とすっかりへそを曲げた私のために、親はその後「サンタさんに代わって、買ってあげるね」といって、ビックリマンチョコ(チョコにシールが付いていたのでした)を買ってくれたのでした。

これが私の唯一の、クリスマスの悲しい思い出です。でも、今になって不思議なのは、私が当時ビックリマンシールに夢中になっていたことを知っていたはずの両親が、どうしてあんな訳のわからないシールを集めて、プレゼントにしたのだろうかということです。先日、母親に「あの年のクリスマスプレゼント、なんで、ビックリマンシールじゃなかったの?」とラインで尋ねました。ビックリマンって、お菓子を買って、その中にシールが入っているのよね。サンタさん、どうしたのかしら?よくわかってなかったのかなあ。そんな返信を送ってきた母は、もう、当時のことを覚えていないようでした。私にとっては一大事だった思い出も、母にとっては、もう記憶の彼方に去りつつあります。もしかしたら、買ったのはお父さんだったかもしれない。そう締めくくった母の返信は、父が泉下の人間になってしまった今となっては、もう誰もわからない過去の出来事になったことを告げていました。

人間は忘れるし、この世からいなくなるから、聞きたいことは、聞いておいたほうがいいと、妻とクリスマスケーキを食べながら、私は思いました。メリークリスマス。