てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

望まぬ花が咲いたなら

久しぶりにコップを購入しました。冬の終わりに咲く、ミモザの絵柄の丸いグラスです。いくつかある花言葉の1つには「感謝」があるそうです。メッセージ性のあるグラスです。
さて、年始からバタバタして、寺には行ったり、行かなかったり。忘れたらいけないよ、と戒めるように、寺から季節の便りが届きました。A4で4ページの、ちょっとしたチラシです。

そこに、「因縁」というタイトルで、あるお寺の言葉が紹介されていました。

蒔かない種は 咲かないが、

望まぬ花が 咲いたなら、

昔 その種を 蒔いたのだろう

そうそう、あるなあ。というのがこれを読んだ時の私の最初の感想。自分で蒔いた種のことは忘れて、「どうしてこんなことに」と悔やむことがあります。運命という名の、どうしようもないことも人生にはつきものですが、日常のちょっとしたことの多くは、自分で蒔いた種の結果であることが、圧倒的に多いのではないでしょうか。少なくとも、私の場合は。

このチラシにもう1つ、面白い話が載っていました。

どんな他者への愛に満ちた人間でも、一番大切なのは自分自身。昔、そのことに悩んだ国王がいたそうです。その話を聞いたお釈迦様は、国王に向かって、こう諭したそうです。人間は誰しも<自分が一番大切>と考えている。ならばこの世は<自分を一番大切だと考える人々の集合体>なのだから、自分以外の人を粗末にするようなことは絶対にしてはならない。自分が一番大切だとわかっている人は、自分以外の人も大切にしなさい。

<自分が一番大切>と思うことは、人間の本能のようなものですから、その考え方を変えることはできません。でも、そこで止まらずに、一歩先に進んで、<自分が一番大切だから>他者も大切にできる、という逆転的発想に至るのがこの話のポイントです。

自分を見つめることで、相手の気持ちもわかる。自分を見つめて、それから相手を見つめる。そうすることで、相手の気持ちがわかる。

相手の立場に立って考えることは、英語で「相手の靴を履く」と表現されることもあります。