てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

一瞬一瞬に決着をつける

今年最初の座禅会への参加で、若そうなお坊さんが、会の合間にこんな話をしました。

年末年始は特別な時期で、多くの人が1年を振り返る。とはいえ、年の終わりに1年を振り返る人はいても、毎日毎日を振り返る人はそう多くはないだろう。先日、自分が和歌山県へ行った時、地域の放送で「みなさん今日は一日いかがでしたか?外出している人は家に帰りましょう。また明日も良い日になるといいですね」と流れた。今日という一日を振り返る、とてもいい放送だと感じた。1年、1ヶ月、1日、と振り返る期間はさまざま。けれども管長さん(寺で一番えらい老師のこと)くらいになると、それが一瞬一瞬になる。一瞬一瞬に決着をつけることができる。先のことにも、過去のことにも引きずられない。そうやって積み重ねていけば、良い人生になるのではないか。

だいたい、こんな内容でした。一瞬一瞬に決着をつける。もちろん、瞬間瞬間に振り返ることは物理的に無理なわけですが、一つの行動言動を振り返り終わらせてから前に進む鍛錬を積むことが大事、というのがこの話の要諦だと思います。

「始まり」は、必ず「終わり」から始まる。金井壽宏さんという神戸大学の名誉教授が、ある本の中で、こんなことを書いています。臨床心理学者のウイリアム・ビリッジズによれば、人間は心理的転換(トランジション)が始まる前に、それまでを一旦終わらせる段階がある。しっかり終わらせないままに、次を始めてしまうと、気持ちを引きずってしまう。だから終えるという段階をちゃんとくぐり抜けることが大事だそうです。

一瞬一瞬に決着をつける。決着をつけるということは、終えるということだと思います。どうやれば「終えた」と言えるのか。終えるために必要なのが、「省みる」という行為だと私は思います。反省する。内省する。自分のやったことを省みる。そして消化する。それで初めて終えることができる。前に進める。

実は今日は寺に向かいながら、ちょうど自分の今年の活動テーマは「省みる」にしようと考えていた矢先のことだったので、お坊さんが「振り返る」という話をした時は、思わずハッとして顔を上げて、心の中でこれだと叫んでしまうほどでした。なんて、年始にふさわしい坐禅会だろう。

久しぶりの寺ではいつの間にか、坐禅中はしゃべらないのでマスクを外しても良いというルールになっていました。境内でノーマスクで坐禅をしたのは、実に2年半ぶりくらいではないでしょうか。良い年になりますように。

本年もよろしくお願いします。

報われなさの1年を終えて

年始のブログ記事を振り返ると、2022年の抱負は「言葉を超えて『空』を考える」でした。けれども振り返ってみれば、よくもわるくも心がかき乱され、もがき、苦しみ続けた一年だったように思います。

10年ともに暮らしたウサギのクロが初夏に他界したことは、その中でも特に気持ちが滅入ることでした。どうしようもないと理解しつつも、考え始めると深い悲しみに溺れてしまうため、あまり考えないようにしています。すっかり寒くなって押入れから取り出したブランケットにクロがかじって空けた穴のあとを見つけた時も、年末の部屋の掃除をしていたらクロの小さな丸いフンが洋服棚の裏から出てきた時も、それ以上は考えないように自己防衛している自分がいました。

訃がなくても、常に追われているような一年だったことも確かです。昨年は書籍を出版したあと、数ヶ月は時間をもてあますような日が続きましたが、それもつかの間、年明け早々から大きなことに取り組み始め、仕事も私生活も、あれもこれも、たくさんの新しいことに手を出して、興奮したり、憂鬱になったり、そのくせ何一つ確かな形にできないまま、あっという間に一年が過ぎてしまったような気がします。

一年の後半は、”自分らしくない”ことに取り組み続けた年でした。今まで抱えていた自分というものを一度手放そうと努力した。そういう意味では、”空”を多少なりとも実践できたともいえるのかもしれません。寺通いはぼちぼち、家での座禅もぼちぼちやりました。新しい学問を本格的に学び始めました。山形の修験の山を経由して秋田の友人の家に向かう、なんて一人旅行もしました<写真>。私は自分の努力を振り返って自分で褒めるような性格ではないのですが、報われなさを抱えたまま終わる今年だけはわれながら頑張ったなあと、励ましてあげたいように思います。がんばった。

来年も一年を、ちゃんと全うできますように。