瞑想したら世界が変わった

座禅を生活に取り入れてます。仕事に活かせるマインドフルネスをお届けします

『我慢』よりも『辛抱』しよう

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今日の都心は25度を超える夏日だったそうです。こちらの寺も緑がまぶしいのなんのって。お堂の裏庭で二羽の鳥が仲良さそうにグワグワと元気よく鳴いていました。

今日は老師が『我慢』と『辛抱』のちがいを説明されました。

曰く、『我慢』は我(われ)を押し殺すこと。我慢を超えると『辛抱』になる。辛抱は我慢とはちがい、我を押し殺さない。目の前のことをやり通すのみ。そして辛抱を超えると『三昧(ざんまい)』になり、自分というもの(我)がなくなる。

『我慢』は自分の気持ちを抑圧するイメージがありますが、辛抱は物事に耐えることに集中し、自分の気持ちをごまかしたり抑圧しているわけではない状態です。しかし、耐えると思っているうちは自分(我)というものが残っていて、それをさらに超えると自分(我)が意識から消える、つまり無心になれるというわけです。たぶん。

<我慢→辛抱→三昧>です。

何か辛いことがあったとき、自分がそれを『我慢』しているのか、『辛抱』しているのかを自問するとよさそうですね。老師は『辛抱』こそが大切とおっしゃいました。

坐禅も一度やってみて辛いからやめた、ではいかんぞと。

3日間、朝の寺で一人で坐禅して感じた『桜の花びらみたいな人生たち』

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いつもの寺の境内で、朝8:30から3日間連続で一人で坐禅をしてみたところ、やや妙なことに気づきました。

坐禅2日目のことです。じっと坐っていると、どこからともなく舞い降りる桜の花びらを視界に端に捉えました。坐禅中は視線を落として無心になるものなので、宙の花びらに気を取られてはいけないのですが、まあ、春です。風情があるのでそれをぼんやり眺めていました。

そして、眺めてるうちに、ふと、こんなふうに思いました。

わたしたちは桜の花びらみたいな人生じゃないか。

枝から離れた花びらが地面に向かって落ちてゆくように、人は生まれた瞬間から死に向かって不可逆的に進んでいく。花びらはいずれ地に着く。人もいずれ死ぬ。

花びらの地に落ちるまでの時間は一枚一枚ことなる。風に舞いゆっくり地面に向かう花びら、雨に打たれて真っ直ぐ落ちる花びら。花びらの命運を左右する雨風には意志はなく、それは偶然でしかない。人の運命もまた、多くは自分で操作できないものだ。

わたしたちは、桜の花びらみたいな人生で、落ちてく速度は異なるけれど向かうところは一緒で、みんないずれは死んでいく。

 

こうしてブログを書いている間にも、わたしは死に向かってあの桜の花びらのように落ちているのだと考えると、一日一日がいとおしくなります。

それはそれで、悪くないなと思えます。

たぶんこんなことを思ったのは、お寺に向かう電車の中で『よく死ぬことは、よく生きることだ』という本を読んだせいだと思います。ニューヨーク在住のジャーナリストだった著者の千葉敦子さんが癌で亡くなったのは、本書が世に出て3ヶ月後の1987年4月のことでした。三度の癌再発。その闘病と命の記録です。

千葉さんは癌になって「あの人は行いが悪いから癌になった」という周囲の意識を感じたそうです。本人に原因があると。でも、ほとんどの人生の死は、その人の行いとはさほど関係がありません。ましてや癌はなおさらです。著者はヘビースモーカーですらありませんでした。

多くの人の人生は、たぶん桜の花びらみたいなものではなかろうか。と私は思ったのです。

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

 

 

東京国立博物館の特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」、立体曼荼羅に感動!

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上野の東京国立博物館で、京都の東寺の仏像展が開催中と知り、本日行ってまいりましたよ。チケット窓口で欧米の人たちが100人以上列をなしててびっくり。平日の上野は観光地なのね。

VR作品「空海 祈りの形」』という催しがありまして、これがすっごいよかった!6月2日までの期間限定なので是非行ってみてください。わたしのような教養に乏しい人は特にね。

www.tnm.jp

このVR作品は東寺にある21体の像を巨大モニターの高画質映像で再現したものです。一体一体に手が届きそうなほど近くまで近寄れる上に、さまざまな角度から像の並び全体を俯瞰できるので、空海が作ったとされる『立体曼荼羅』の意味がよくわかりました。わたしは東寺に行ったことはないのだけど、正直、実物を観るよりもわかりやすいんじゃないかな。

 

空海密教曼荼羅を、実際の像を並べることで平面から立体で表現しようとしたんですね。これが『立体曼荼羅』。

密教は呪術的な要素が強いと聞いたことがあります。たしかに、高野山の宿坊を利用したときも、大迫力の護摩には観光客がたくさん集まっていて、誰が見てもわかりやすいおもしろさがありました。視覚的なわかりやすさを追求した『立体曼荼羅』は、五感に訴える密教らしい発想から生まれた作品なのかもしれません。

とかく天才という言葉で語られることが多い空海は近寄りがたいイメージでしたが、実は大衆向けの発想を持ったポップな人だったのかも?

ちなみに空海は筆が上手かったことでも有名です。今回の展示会場にはその空海の直筆の書がありました。興味津々で覗いてみたところ・・・・あれ?これうまいのかな?という印象。わたしは書の世界はよくわかりませんが、さほど上手とは思えませんでした。空海の書の横に展示されていた天皇の書はもっと下手でした(すいません汗)。昔と今では書の感性もちがうんでしょうか?うーん・・・。

 

とにかく、面白い展示会です。資料も充実してます。

館内のナビゲーションが密教をこう表していました。

密教とは、見つけることのできない”秘密”を求めるもの』

今年のゴールデンウィークは、”見つけられない秘密”を探しに来てはいかがでしょうか?

まぢか・・・坐禅中に叩く勢いで木の棒「警策」が折れた

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青空、温暖、桜満開。絶好の坐禅日和でした。

今日は老師がお休みで若い雲水さん(修行僧)が会を仕切りました。

坐禅中は「警策」と呼ばれる木の棒で背中を叩いてくれるのですが・・・この方の打ちかたがめっちゃ上手かったです。

ぴしぃぃぃーーーー!

ぴしゃぁぁーーーー!

参加者の背中を叩きつけるたびに、木のしなる音と叩いた瞬間に生まれる破裂音が響きます。それはそれは惚れ惚れするような快音です。いままで私が聞いてきた中で一番いい音を鳴らしてました。警策で叩くにも上手い人と下手な人がいまして、上手い人はその鋭い音で場を引き締めて緊張感を与えてくれるんです。

雲水さんが次々と参加者の背中を叩いていると、途中でカランと音がして、なんと木の棒の一部が欠けてしまいました。まぢか・・・。警策の棒が折れることがあるというのは話として聞いたことがありましたが、実際に目の当たりにするとは。

雲水さんは、さっさと代わりの棒をお堂の奥から取り出し、何事もなかったかのように打ち込みを続けました。

木が折れるほどの衝撃。どんだけよ?これはわたしも是非体験したいと思いました。

そしていよいよ私の番。

背中を打たれた瞬間、その衝撃音があまりに大きく、耳がキーンとしました。

それでいて、実はたいして痛くないのです。うーん、すごいふしぎ。

坐禅も、きもちよかったです。

今日は最高でした。お寺を去るのが名残惜しいほどに。

お寺で見つけた”お地蔵様カラーコーン”の効用

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きのう、お寺の境内で見つけました。お地蔵様の形が取られた三角コーンです。 

こんな風変わりなコーンを見たのは初めてです。

突如現れた地蔵コーン。

一体だれが?何のために?

 

調べてみると、あるアーティストさんが数年前に作った作品であることがわかりました。

カラーコーンが地蔵に?SNSで反響の「地蔵コーン」作者が語る風景との調和美/オリコンニュース https://www.oricon.co.jp/special/52270/

取材記事では、作者がこの地蔵カラーコーンを作った理由を次のように語っています。

日本では仏教が伝来したとき、地蔵は土着の道祖神信仰と習合して『道の守護者』という捉え方をされました。道ばたや、村の境界に置かれてきたのも、カラーコーンの役割に似ているなと思いました。

なるほど、なるほど。カラーコーンは大事な役割をしているわりに、そっけないデザインですよね。

なんとこの作品はメルカリで買えるそうです。いま調べたら1本11,000円でありました。ふつうのカラーコーンは1本1000円位で売られています。

 

さて、この芸術品?をスマホで写真におさめて家に帰った私は、さっそく奥さんに報告しました。

「ねえねえ、こんなおもしろいカラーコーンがあったよ」

すると奥さんは笑って言いました。

「へえ、なるほどね、そういうデザインにしたら、蹴られたり、盗まれたり、イタズラされずに済みそうだものね」

なるほど。全然気づきませんでした。作者の意図とは異なるかもしれませんが、駅前など人通りが多い所にこうしたデザインのカラーコーンを置くことは、防犯の上でも効果的かもしれません。

でも、本当は、地蔵の形をしていても、していなくても、ものは大切にしないといけないですよね。すべてのものには、その中に地蔵が入っていると想像したら、もっといろんなものを大事にできるのかもしれません。

カラーコーン、意外と深かった・・・。

 

この日は桜を見に行ったのでした。東京はほぼ満開だそうですが、この場所は冷えているせいか、まだ5分咲きでした。 

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全国でも珍しい禅の博物館「駒澤大学 禅文化歴史博物館」に行ってきた

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日本の禅の歴史を学べる『禅文化歴史博物館』に行ってきました。仏教に関する資料館や展示会は国内に数あれど、こと『禅』に特化した博物館は全国でも珍しいでしょう。一度は行きたいと前々から思っていました。

禅文化歴史博物館は東京目黒区の駒澤大学の敷地内にあります。駒澤大学の前身は、明治15年に開校した曹洞宗大林学専門学校です。もともとは文禄元年(1592年)までさかのぼる、曹洞宗が禅の研究と実践を行う学校だったそうです。そのため総合大学となったいまでも『仏教学部禅学科』というユニークな学科があります。卒業すると学士(禅学)が得られるそうです。

www.komazawa-u.ac.jp

・・・というような歴史を知ったのは今日の事ですが、まあ、禅文化歴史博物館は以前から興味がありまして、本日は御日柄もよく絶好の訪問日和となりました。大学に隣接する駒沢オリンピック公園は歩いてて気持ちよかったですね。

 

さて、禅文化歴史博物館。”博物館”というにはやや大げさな小ぶりの建物ですが、資料は充実しています。国内の禅の歴史、曹洞宗の歴史、さらに禅と茶道・華道・庭園・水墨画、文学など禅とその周辺文化が広く紹介されていました。

個人的には次のエピソードがおもしろかったですね。

日本の代表的な調味料である味噌と醤(醤油の原型)は、中国、朝鮮から伝わり、8世紀ごろには日本でも製造されていた。日本国内で定着し普及したのは、無本覚心(1207~98)が浙江省杭州の径山寺(きんざんじ)で造法を修得したという世に言う金(径)山寺味噌である。

 

水墨画は)外面的な形似を否定し、対象の本質を内面的にとらえたものである。また水墨画には、下書きがなく、精神を集中して構図を決め、気を満たして一気に書き上げる。この姿勢は、禅の教義と相通ずるものがあり、日本の禅林で大いに受け入れられた。

禅と文化の関係が多岐にわたって解説されているので、新しい分野に興味を持つことができると思います。

館内には木魚や鐘が展示されていて自由に鳴らすことができます。今日は私以外の入館者がいなかったので、1人でひたすら木魚を鳴らしました。ぽくぽくぽくぽく・・・・叩き放題です!

これから春に近づくにつれて、お隣の駒沢公園は190本のソメイヨシノサトザクラなどが咲く桜の名所になります。お花見ついでに禅文化歴史博物館まで足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?入館無料。もちろん学外のどなたでも利用できます。

www.komazawa-u.ac.jp

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『超越と実存』を読みながら思った「『言語化スキル』は本当に重要か?」

 

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

 

言語化スキル」の過大評価

ものごとを言葉にする、いわゆる「言語化」というビジネススキルが、仕事をする上で役立つことは言うまでもないでしょう。

モヤッとした感情や状況を言語化することで、物事の論点がハッキリして、的確な指示や解決策が出せるようになります。

私は大学卒業以来、いちおう”言葉”を生業とする仕事をしてきましたので、言語化という作業が苦痛ではありません。職場でも、言語化が大好きで得意な人たちと仕事をしてきました。

ところが、あるときから、言語化を得意としない人たちと仕事をするようになり、とても戸惑い苦労したことがあります。「言語化の重要性はビジネスパーソン共通の考え」だと思っていました。しかし、そうではない。言語化に価値を置かない人たちが沢山いることを知りました。しかも彼らの仕事の能力は低いわけではなく、極めて高いこともあります。『言語化できることと、職能の高さは、まったく比例しない』ことを痛感すると同時に、私自身が「言語化スキル」を過大評価していたことに気づきました。

言語化の価値が落ちていく

ここ数年、坐禅をするようになり、私の中で言語化という行為の価値がじわじわと落ちています。坐禅は語るものではなく実践するものです。坐禅をいくら語ったところで、実際にやってみなければその価値はわかりませんし、またその価値を言語化したところで、坐禅の実践者にとってはあまり意味がないと感じます。

さて、今回、現役僧侶の南直哉さんの著書『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』(小林秀雄賞受賞)を読み「言語化」について考えさせられました。

南さんは、道元の『正法眼蔵』の一説、

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」

を紹介し、その意味を次のように説いています。

我々の「問い」は、「〇〇とは何か」となされるのではなく、それが「何かわからない」ままに、「〇〇はどのようにあるのか」となされなければならない。このことを、右に引いた正法眼蔵の引用文は言っているのだ。「自己をしるなり」ではなく「自己をならふなり」とあるのは、自己が「何であるか」ではなく、「どのようにあるのか」、その在り方を仏教の実践として習得すべきことを教示しているからである。

「何であるかわからないもの」とはすなわち、「そのようにある」根拠を欠くものである。それはまさに「無常」として、根拠を欠いたまま存在する事実、すなわち「実存」を意味することになる。

これはヨーロッパ発祥の哲学『実存主義』『現象学』に関わる考え方だと思うのですが(学生時代に何冊か読みましたが覚えてません)、それを坐禅という私が興味を持つフィールドで語ってくれているので、親しみを持ちながら読むことができました。

 

本書は仏教史を超越と実存で語るという試みです。思考を刺激する論が次々と登場し、読み応えがありました。

坐禅に興味がある人におすすめの一冊です。