座禅したら世界が変わった

座禅ビギナー。座禅をしたら世界が変わって見えました。

猛暑に呟く名句「心頭滅却すれば火もまた涼し」は誤解されている

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久しぶりの座禅。写真では伝わりませんが、3週間ぶりに見た蓮が、あちこちの瓶からすごい勢いで成長してました。

zennote.hatenablog.com

 

今日は猛暑とはいわないまでも、そこそこ暑めの一日。汗がじとっとでてきます。

老師が欠席で、代わりの僧がこんな話をしてくれました。

 

心頭滅却すれば火もまた涼し』という有名な言葉があります。

甲州(山梨)の僧が織田信長の焼打ちにあった時に言った言葉と伝えられていますが、

もともとは中国の言葉

「滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば火もおのずから涼し)」

からきています。

そして、実はこの中国の言葉の前には

「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)」

という言葉が付いているのです。

座禅というのは、山や水の音が聞こえるような

静かで気持ちのよい場所で行う必要はない。

暑く厳しい環境であっても、座禅に集中することはできる。

そういう意味だそうです。

 

私は「心頭~」の名句はてっきり日本の僧の言葉だと思っていたので、

中国由来の禅語であることにとても驚きました。

さらに、ある禅宗のサイトによると、

「火もまた涼し」の”涼し”とは、

火が涼しいのではなく、熱さをそのまま受け入れる境地を

「涼し」と表現しているそうです。

”ありのまま”を受け入れるのが座禅の要諦だからです。

 

私が幼い頃、夏になると父がよくこの言葉を口にしてました。

私は「気分次第で火も涼しく感じる」という意味だと思っていました。

どうやらこれも誤解だったようです。

この夏、墓前で父に教えようと思います。

 

参考:禅語「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

心配で仕事に集中できない時の「而今」

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写真は7月。

今日は近所の書店で座禅関係の本をパラパラめくっていたら、

而今(にこん)」という禅語が紹介されていました。

過去でも未来でもなく、「今」に集中するという意味だそうです。

 

座禅をするときに、老師から似たようなことをよくいわれます。

「今」に意識を向けると何が起きるのか。

仕事をしている最中に、ふと別の案件や心配事が気になって、

目の前の課題に集中できなくなることってありませんか?

そんなときに、この「而今」を思い出してみてはいかがでしょうか。

 

以前、座禅会の参加者が、

「座禅中に鳥の声や風がとても心地良く、『ああ、気持ちいいなあ』と思ったりするのですが、これでいいのでしょうか」

と老師に訊ねたことがあります。老師は言いました。

「鳥がチュンチュンと鳴けば『ああ、鳥がチュンチュンと鳴いたな』と。風が吹けば『風が吹いたな』と。それだけでいいんです」

ぼくの勝手な解釈なのかもしれませんが、

老師が言いたいのは、

「物事を解釈せずに、そのまま受け入れろ」

ってことなのだと思います。

鳥のさえずりを聞いて「もう夏だな~」とか、

風を感じて「今日は涼しいな~」とか、

そういう気持ちは、今この瞬間に集中する上では不要です。

はっきりいって、雑念なのです。

 

心配事で仕事に集中できないときは、

「自分には心配事があるんだな」と思いつつ、

それ以上は何も考えない、感じないようにすることが

大切だと思います。なかなか難しいですけどね。

ところで、而今という言葉を知ったとき、

ひょっとしてカメラメーカーの「NIkon」は、

ひょっとするとこの禅語が由来じゃないかとググってみましたが、

残念ながら関係はありませんでした。

Nikon | 投資家情報 | よくあるご質問

雑念が消え、集中力が高まる心身鍛練法「数息観」

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写真は6月某日、某所。

今日は風邪を引いて座禅に参加できなかったので、

自宅で15分間だけ行いました。

家で座禅をすると、生活音とかが気になって、

なかなか集中ができないんですね。

 

そんなときに、集中力を高める方法があります。

座禅をしながら、自分の呼吸を数えるというものです。

息を吸って、吐いて、その動作そのものに集中しながら、

呼吸数を「いーち、にー、さーん」と数えるのです。

これを「数息観(すうそくかん)」といいます。

 

個人的には、呼吸数を数えるよりも、

吸って吐く動作のなかで肺が膨らんだり筋肉が動いたり、

そういう自分の体の動きに集中しながらやると、

自然と雑念が消えるように思います。

そうして、だんだん、呼吸という動作そのものが、

すごく気持ちのいいものに感じてきます。

そうすると、時間があっという間に過ぎていきます。

集中できている証拠だと思います。

 

今回、15分間はあっという間でした。

「法界定印」を覚えれば座禅はできる。いつでも。どこでも。

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今日は座禅会を休みましたので、代わりに座禅の方法について書きます。

座禅中の手の組み方をご存知でしょうか。ときどき膝の上で手のひらを上に向けて置く人がいますが、これは瞑想のやり方です。

これはこれでいいのですが、座禅のやり方ではありません。

座禅では手を定まった形に組んで、ヘソの下の「丹田(たんでん)」と呼ばれる部位に置きます。

これを「印を結ぶ」と言います。

ぼくが習った最も一般的な印の結び方は、左手の上に右手を乗せ、親指同士をくっつけて(あるいは少し離して)輪っかを作る「法界定印(ほっかいじょういん)」と呼ばれる形です。

座禅の印の結び方には、もう一つ、「白隠流(はくいんりゅう)」という印もあるそうです。

印の組み方はイラストで見た方がわかりやすいのでこちらをどうぞ↓

www.sotozen-net.or.jp

 

ぼくは仕事の合間などに心を落ち着かせたい時は印を結ぶようにしてます。

座禅している時の気持ちを呼び戻すためです。高ぶった感情が少し落ち着きます。

座禅は長時間座らないとできないと思う人もいるでしょうが、心を落ち着かせるだけなら座る必要はありません。

椅子に座っても、外出先で人を待っている間でも、いつでもどこでも心をほぐすことができるようになります。これが座禅のいいところです。

ぜひ、やってみてください。

 

今日、久しぶりに大仏を見ました。冒頭の写真がそれです。その時気づいたのですが、大仏の印は「法界定印」でも「白隠流」でもありませんでした。

ググってみると、これは定印というそうです。なぜそういう形になっているのかはわかりませんでした。知っている人いたら教えてください。

資本は捨てると幸せになる!?「幸福の資本論」と仏教の関係

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人気作家の橘玲さんは「幸福の『資本論』」の中で、仏教を独自の捉え方で意味付けしています。

仏教における煩悩は、突き詰めればすべて人間関係(社会資本)から生じます。仏陀は煩悩から自由になることを悟りと呼び、瞑想(マインドフルネス)などさまざまな精神技法を提唱しました。

しかし考えてみれば、究極のソロ充は、恋人や家族とのつながりを捨てる代わりに人間関係が生み出す面倒なこと=煩悩から自由になるわけですから、これは仏教の悟りと同じです。欧米や日本のような先進国では、ゆたかさ(お金)とテクノロジーによって、いっさいの修行なしに誰でも「悟り」の境地に達することができるようになったのです。

 

なるほど、そういう見方もできます。さすが橘さんです。視点が鋭い。

ところで、この本を読んだ矢先の今日、座禅会では「第十則・清税孤貧」という話を紹介されました。老師は「『孤貧』というは何にもないという意味ですが、これこそ座禅の究極なんです」と言いました。

橘さんの悟り論は大変おもしろいのでケチをつける気はさらさらないのですけど、仏教というのは毎週老師の話を聞いていると、人間関係はおろか、所有欲や名誉欲からも解放されることを目標としているように思います。

ここでいう「解放される」というのは、人間関係も所有物も名誉もすべて放棄しろという意味ではありません(そういう意味もあるのかもしれませんが、ぼくはもっと広義の意味もあると思います)。そもそも、所有物(衣食住)を全て放棄したら、人間は生きていけません。

お金もテクノロジーも名誉も人間関係もなくても、人間は精神的自由を得ることができる。仏教が目指す悟りとは、そういうものな気がします。ゆたかさ(お金)とテクノロジーがないと精神的自由を得られないとしたら、それは悟りではないと思います。

人間は資本がなくても幸せになれる!という極論を言うつもりはありません。それはファンタジーでしょう。

ただ、資本には持つことで幸せになる側面と、捨てることで幸せになる側面の2面性があると思います。資本は捨てることでも幸せをもたらしてくれるような不思議な存在です。流行の「断捨離」もその一つでしょう。

写真は蓮の花です。

数十万回の座禅の果て

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今日はお堂で写生してる外人さんがいました。太さの異なる黒いペンのうち、一本を手に持ち、一本を口にくわえ、あと三本を横に置いて堂内を描いてました。覗き込んだら、なかなかの腕前。黙々と画用紙と向き合ってます。

 

今日の座禅はあまり集中できませんでした。30分間のうち、最後の10分位でようやく雑念が取れた感じです。足を解いたらいつもより痺れが強く、冷たい感じがしました。

30分間座禅することが大して苦にならなくなったのは嬉しいことです。通い始めた頃は、本当に辛かったんです。30分なんて、気絶しそうな長い時間でした。それがいまでは、「もうちょっと続けられるかな」というレベルです。

座禅を始めて10か月ほどです。週1回の頻度ですが、毎週来れるわけではないので、たぶん通算すると30回くらい座禅をしたことになります。ちょうど1か月分です。

雲水(うんすい)と呼ばれる若い僧たちは、これを毎日続けています。老師は77、78歳の方ですから、60年以上座禅を続けていることになります。仮に1日10回座禅をしたとして、10×365×60=219000回。約22万回という気の遠くなるような数字です。実際は1日10回ではきかないでしょう。

老師はよく「座禅は1回やっただけでは意味がないんですよ。続けることで、ある日、わかるんです」といいますが、一体どれほどの座禅を重ねればいいのか。

 

まあ、ぼくらは僧ではないので、座禅をして心がスッキリするだけでも十分その魅力を味わうことができます。

今日はお寺に続く坂道を歩きながら、なにかがいつもと違うなあと思ってたのですが、ただ暑さのせいかといえばそうではなく、耳に張り付くようなセミの鳴き声のせいでした。お堂にも聞こえていました。先週はなかったのにね。夏です。

四季の移り変わりは寺が教えてくれる

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今年4月中旬、日が暮れるころの写真です。

座禅をするためにお寺に通うようになって、四季の移り変わりを五感で感じることが増えました。

秋は紅葉、木の実を求めてリスが走り、冬はあっという間に日が落ち、寒く、静か、春は暖かく、桜のつぼみが徐々に開くのを楽しみながら、梅雨には紫陽花(あじさい)が一気に花開く。

ここには心を和ませてくれる、たくさんの出来事があります。

寺とはそういう所です。