瞑想したら世界が変わった

座禅を生活に取り入れてます。仕事に活かせるマインドフルネスをお届けします

夜の座禅も始めました

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なんか忙しくて久しぶりの座禅会参加でした。30分の座禅だったんですけどね、いやー、久しぶりだと結構つらいですね・・・。

老師の講和を聞いたのも久しぶり。相変わらずわけがわかりませんでした。体露金風という話でした。

なぜか肩が凝ってしまいました。自宅で使っている座禅の布団と、座禅会で使う単布団は高さが違うので、それも影響しているのかもしれません。

ところで数日前から自宅で夜も座禅するようになりました。ベランダで数分間だけの座禅ですけど、やると気分がちょっと変わりますね。やっぱりいいです、座禅。

これまで続けてきた朝座禅に加えて、心地良い習慣をもう一つ増やしたいと思います。

 

 

座禅の習慣にGoogle Homeを使うと超快適でした!

Google Home 完全ガイド

Google Home 完全ガイド

 

最近グーグルホームミニを買いまして、朝の座禅に使っています。

私の朝の習慣は、寝室から出て、まず顔を洗い、それからパンにマーガリンを塗って、トースターにいれてタイマーをセットして、その間にベランダに出て数分間の座禅をすることです。

このとき座禅する時間を、いままではスマホのタイマーを使っていたのですが、最近はグーグルホームをベランダに出して、声でタイマーをセットしています。

これが想像を絶するほど快適、便利なんです。もっともっと、色々使えそうだなあと感じています。

音声機能、最高です。

山村に生まれて名刹の住職になった或る老僧の一生

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山村に生まれ、幼少期に寺に出されて、大学にもいかず、座禅の修行三昧。そんな、今の時代では想像できないようなキャリアを積んできた仏僧がいます。

私が座禅に通っているお寺は関東圏ではわりと有名な古刹でして、写真の通り立派な門(国重要文化財)があり、週末には多くの観光客でにぎわいます。そんなお寺の住職をつとめる老師の、これまでの人生を振り返った書籍を最近たまたま見つけて読んだところ、けっこう衝撃的だったのでここに紹介させていただきます。

今の時代、たぶん、こういう人はもう出てこないと思います。

 

私が通っているお寺の老師は、今から70年以上前に岐阜県の山村で生まれました。5人兄妹の上から3つめ、父親と母親は病気で臥せりがちで、生活は厳しく、小学3年生の時に否応なく寺に出されたそうです。「坊さんになれ」。そういって亡くなった父親の遺言でした。

8歳から10年間を寺の小僧として過ごしました。寺の中では一番下っ端。あれもこれも仕事を振られ、厳しい師匠からは法式など寺のことを徹底的に教え込まれました。520文字からなる「観音経」はそらで言えるようになり、さらに難しい「金剛経」でさえ、わずか小学5年生で口からスラスラとでるようになりました。

10年が経ったとき、行く先がなくて、19歳の時に京都のお寺で僧として修行することになりました。幼少期から寺小僧生活を経ていましたが、そこからさらに18年間を寺で過ごし、座禅、托鉢、作務といった修行に勤しむことになります。

僧堂に入ってまず驚いたのは「なんで皆はこんなにお経がヘタなんやろう」ということでした。長かった小僧生活は、いつの間にか周囲をはるかにしのぐほどの寺の作法を身に付けさせていました。掃除をやらせても、お経を読ませても抜群にできました。7、8年経ったころには怖い者なしに。しかし、先輩から生意気だと目を付けられげんこつで殴られるいじめにあいました。また、修行を共にする僧たちは、大学を出た者や、寺の息子が多かったので、自分が貧しい出であることは恥ずかしくて口にすることはできませんでした。

禅宗の修行は厳しいと言われます。とくに12月になると「臘八大摂心」と呼ばれる1年で最も過酷な修行が行われます。不眠不休で1週間座禅を組むのです。足の痛みも五体の感覚もなくなった状態で8日目の朝をむかえるという禅宗の辛い修行でした。寺の仕事はなんでも器用にこなしたものの、師匠とは噛みあわなくして叱られ、修行も面白くない。「座禅などしてなにになるのか」と何度も思ったそうです。

同期は年を追うごとに修行を終えて道場を去っていきました。落ち着く先もなく、「養子にしたい」という余所からの声もかからないまま、歳も30半ばになったころ、ようやく知り合いの紹介で、関東のお寺の住職につくことになりました。36歳の時です。その後、47歳になって現在の寺の管長に就任。若手の僧の指導にあたり、いまも日本有数の寺の住職として活躍しています。

老師の人生というのは、いま流行の書籍で推奨されているような「キャリアプランを立てよ」「楽しいことを仕事にしろ」「合ってない職場はさっさと転職しろ」といった生き方論・働き方論とはまるで逆です。老師の人生は、まさに行雲流水、選り好みなく、あてもなく流れついたかのようです。目的や計画がないと不安になってしまう今の私には、絶対に真似できません。

「あっちこっち変わって、歩くということはその人の一つの運命やな。わしも家を出て、小僧に行って、僧堂に行ってあっち行って、こっち行って・・・。たぶん僧堂時代に『もういやになった』と、よそへ転錫してたら、今ここにはいないわ。いい加減に要領ばっかり覚えていると思うわ」

老師は長く厳しかった修業時代をこう振り返っていますが、そこに悲惨さや、重苦しさはありません。座禅会で講和する老師の姿も、威厳のあるお坊さんというよりは、ひょうひょうとして軽やかです。近年の寺の盛隆について、老師はこんな風に語っています。

「(寺の発展は)俺のおかげじゃないわ、こんなものは。皆がそういう気持ちで一つになれたからできたことであって。わしなんか何にもしてないわ、あるい意味じゃ。たまにうるさいこといって嫌われたくらいがオチなくらいで。それも一つの仕事じゃろうからな」

名刹の住職を務める僧の中には、一般向けの啓蒙書を書く人たちがいます。私が知る限り彼らのほとんどが大学出身者です。講和を聞いていても、とても洗練されていてわかりやすく上品です。それに比べ、座禅会で「かっかっかっか」と高笑いしながら「空(くう)とはからっぽ。宇宙一杯なんですよ」などと聴衆を遠慮なく置き去りにしながら語りかける老師は、かなり異質な存在なのかもしれません。日本の仏僧の多くは妻帯者ですが老師は独身です。

山村に生まれ、10年の小僧生活、18年の修行道場生活・・・そんな人は、いまの日本でこの先、出てくるでしょうか?

一人の老僧のお話でした。

組織において必要のない話は、すべて害のある話だ

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ぼたんの季節ですね。おしべの花粉を体中にぬりたくる蜂を撮影してみました。今日は朝9時から寺で座禅しました。学生も観光客もいなくて静か、なにより心地いいポカポカ陽気でした。もう最高。

さて、今日は最近私が仕事で気をつけている口のきき方について書きます。

日々、部下にあれやこれやと指示・指導をしていていると「これは相手に上手く伝わったな」と感じる時と、「まったく腹に落ちていないな」と感じることが多々あります。後者の時は、自分の言葉は相手の心に響かなかったのだなと正直へこみます。私の部下はほとんどが私より年上、あるいはベテランなので、表面だけでもハイハイと頷く若手のようにはいきません。「コイツなにいってんだか・・・」という態度を遠慮なく見せる人もいます(私が逆に立場でも同じ態度をするかもしれませんので、彼らを責める気はありません)。

どうすればこちらの意図や指示を、相手の心に届けることができるのか、これは私にとって日々悩ましい問題です。そこで最近、「出来るだけシンプルに伝える」ということを心掛けるようにしたところ、これが案外うまく機能することに気づきました。

言葉を装飾したりしない。言い回しにこだわらない。話の寄り道をしない。どれも当たり前のことです。が、あえて意識するようになって、自分の話には想像以上にムダが多かったことに気づきました。ムダを省こうとすると、自然と下準備もしっかりと行いますし、指示もシンプルになります。

「シンプルに。そして具体的に」

これを心掛けることで、以前よりは私の意図が相手に伝わるようになった気がしています。「無駄なことを話さない」という考えは、いま読んでいる仏教の八正道に基づく「エイトマインドフル・ステップ」という本に書かれていたことです。本書の「必要のない話はすべて、害のある話になる」という一節がとても胸に響きました。

意味のある会話だけをする。意味のある指示だけをする。組織において必要のない話は、すべて害のある話だと考えています。

8マインドフル・ステップス

8マインドフル・ステップス

  • 作者: バンテ・H・グナラタナ,出村佳子
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朝からお坊さんも大変だ!

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久しぶりに早朝座禅会に参加しました。

朝6時にお堂に入り約1時間の会がスタート。始めはお堂を囲む山林からホーホケキョ、チュンチュン、フクロウのホーホーと、にぎやかな鳥の鳴き声が聞こえていましたが、フクロウの声がやみ、ホケキョが聞こえなくなり、座禅が終わるころには境内の雀の鳴き声だけがわずかに残っていました。朝の時間はせわしないですね。

今日の座禅はお腹が空いて集中できずに、なぜかお坊さんのことばかり見てました。いつもこの早朝座禅会を担当している三十歳代くらいのお坊さんなのですが、今日は座禅しながら途中で鼻を布ですすっていて、なんだか調子が悪そう。この人の警策(棒でたたく行為)はいつもバッチンバッチンすごい音が鳴るのに、今日はペシペシとずいぶんとお手柔らかなもので、元気もなさげです。

座禅会が終わった後は、参加していた初老の男性から呼び止められて、なにやら穏やかならぬ雰囲気。男性の声は次第に大きくなり、しまいにはお坊さんに対して怒鳴り声で何かを問い詰めているようでした。会話の内容はわかりませんが、あのように一般の方がお坊さんに大声を出すところは初めて見たので、ショックというか、びっくりしました。

考えてみれば、お坊さんも大変です。寺にはいろんな人が来ます。宇宙人からのメッセージが来るとか、ちょっと精神疾患が疑われる人も相談に来るというお坊さんの話も聞いたことがあります。高層ビル、通勤電車、コンクリートリバーからかけ離れた寺に居すお坊さんであっても、世俗の煩わしさから離れることはできないんだなあと思いました。

今日は10名参加、うち3名が海外の方でした。以前このブログで書いた美女2人組もいました。まだここで修業しているんでしょうか。もう結構、長い気がします。

zennote.hatenablog.com

今週は桜が見ごろを迎えていました。

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お寺で写経体験してみませんか?

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昨日は久しぶりに写経をしてきました。写経というのは読んで字のごとくお経を写す(書く)ことです。何を書くかといいますと、実はこれと一つに決まっているものではありません。「般若心経」だったり「延命十観音経」だったりしますし、「写仏」といって仏像の絵を描く場合もあります。

そこそこ大きなお寺であれば、ウェブサイトに1回いくらという風に書かれていて、観光客が旅の記念に写経・写仏が体験できるようになっています。相場は1000円くらいです。

お経を写すという行為は、コピー機がない時代にありがたいお経を他人に広めるために行われていたわけですが、もちろんそれだけではなく、書くという行為そのものにもまた意味があります。ものの本によれば、写経は座禅と同じように、無心に筆を運ぶことで心を一つにし、心の平静と本来の自分を取り戻すことだといいます。

ですから、字のうまい・へたは関係ありません。姿勢を正しく、呼吸を整え、丁寧に書けばそれでよいのです。

お経なんて知らないし、筆なんて書けないという方も、安心してください。お寺の写経は、毛筆、筆ペンの両方が用意されています。用意された紙にはうっすらとお経が下書きされています。ですから、初心者でも筆ペンを使って、その下書きをなぞるだけで、写経が一丁出来上がりというわけです。

冒頭の写経の写真も、私が下書きをなぞったものです。でなければ、とてもじゃないですけど書けません。

今回、久しぶりに写経をしたのですが、集中するのは大変むずかしいことですね。座禅と同じで、何度もやらないと、これはその入り口にさえ立てないと感じました。途中から飽きてしまって、サッササッサと筆を走らせてお終い!通常は般若心経の写経は1時間以上かかるのですが、40分で早々に切り上げました。

それでも、言葉に表せない不思議な満足感を得られます。下書きありとはいえ、自分が書いたきれいな字を見ると達成感が込み上げてすがすがしい気持ちになります。

最後に自分の名前を書き、写経会場にある観音堂に納めました。

名前、アカウント名にしちゃったけど、いいよね?

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「諸々の教えはいかだのようなもの。激流を渡ったら捨てるべきである」

f:id:kuriedits:20180316210608j:plain先週は夕方の座禅会に参加しました。やっぱり、夕方から夜にかけての座禅の方が、圧倒的に没頭できますね。今日は寺での座禅はせずに、本を読んでました。「8マインドフル・ステップ」という本です。釈迦(ブッダ)が涅槃に至るための道を説いた「八正道」に基づいたマインドフルネスの実践書です。マインドフルネスの世界では非常に有名な本らしいです。これ、めっちゃいいですよ。読んでるだけでリラックスできます。

8マインドフル・ステップス

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  • 作者: バンテ・H・グナラタナ,出村佳子
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この本の「『人・経験・信仰』にたいする執着を手放す」という章に印象的な記述がありました。執着という感情についてです。

私たちは自分というものの個性を得たいがために、信仰や意見、思考に執着します。たとえば、自分の支持する政治家や政策問題についての意見が批判されると、自分が攻撃されたかのように感じますよね?執着があるために、欲が生まれ、苦しみが生まれます。この苦しみから逃れるためには、善も悪も越えてあらゆる執着を捨てる必要があると考えられています。ブッダは、ブッダ自身の教えさえも手放すべきだと説いたそうです。

諸々の教えは、いかだのようなものである。

いかだによって激流を渡ったら、

いかだは捨てていくべきである。

たとえ善い教えでも、捨てるべきである。

悪い教えなら、なおさらである。 <中部経典22>

正しい教えでも捨てるというのが大事なんですね。仕事でも、過去のやり方や栄光、成功は捨てなくてはいけません。むずかしいことですが、そこに執着すると余計な苦しみや軋轢を生むことは、多くの人が実感として経験していると思います。一人一人の過去の経験は貴重ですばらしいものです。ですが、「医療とはこうあるべき」「メディアとはこうあるべき」「小売業とはこうあるべき」そのような執着はいったん捨てて、目の前の課題や問題に取り組む。そのようにありたいと思いました。