瞑想したら世界が変わった

座禅を生活に取り入れてます。仕事に活かせるマインドフルネスをお届けします

何事も、その一回を大切にしたい

f:id:kuriedits:20181116200049j:plain

旅行などでご無沙汰していました坐禅会に久しぶりに行ってきました。紅葉はこれからかな~と思っていたら、葉っぱがない!この地域の紅葉はまだ先のはずなのですが残念。

今日の坐禅会は20分×20分。老師がお休みで代理の僧が一人で仕切りました。慣れてらっしゃらないのか、口下手なのか、坐禅の説明が中途半端で、警策もいまいち(ビシッと大きな音がしない)とやや残念な内容でした。

今日は初参加者が多めだっただけに、私としては心の中で

「いつもはもっとおもしろいんだよ!」

と叫んでいました。

催す側にとっては毎度のことでも、参加者にとっては最初で最後かもしれませんよね。人との出会いも、何事も、一回一回を大事にしたいなと思いました。

寺とこの土地の空気は、いつもどおり清々しかったです。

地球1周分を歩き、飲まず食わず、寝ず、横にならずを9日間。荒行を綴った『千日回峰行を生きる』

比叡山の特別な修行

比叡山に泊まった際にホテルで購入した本。千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)という特別な修行をした僧侶の著書です。久々に読み返したら、最初に読んだ時よりも味わい深かったです。

千日回峰行を生きる

千日回峰行を生きる

 

失敗したら腹を切る

千日回峰行比叡山に古くから伝わる、非常にエグい修行の一つです。本書から引きます

基本的に一年間に百日―二百日の年もありますが―、比叡山を巡拝する。それを積み重ねて、千日に至る行です。

千日で歩く距離は地球1周分にもなるとか。その上、千日回峰行には掟があり、修行を諦めた者は切腹をしなくてはいけないそうです。やばくないですか?

ただ歩くのではなく、日常の生活を続けながら毎日歩きます。著者は夜の8時に寝て、深夜12時に起き、2時間ほどお勤め(お経を唱える)をして、それから素足にワラジを履き夜通し6時間ほど歩いてお参りをして、朝の8時ころに戻り、あとは住職として身の回りのことや、寺の仕事をしていたそうです。つまり、毎年100日間は連続して睡眠時間が4時間半になります。血尿が出る人もいるそうです。

飲食禁止、寝ることも許されない9日間

これだけでも大変なことだと思うんですけど、さらにすごいのが、700日を超えたあとに行う「堂入り」です。

700日が終わった当日から9日間、お堂に籠って9日間、断食、断水、不眠、不臥(横にならない)で不動明王にお祈りします。堂内で不動明王真言を10万篇唱えます。お堂の外に出られるのは、毎日午前二時にお供えする水を運ぶために井戸に行くときだけ。

死ぬんじゃない?と思うんですけど、まさに死と隣り合わせの修行となります。

5日目からうがいをすることが許されるそうです。ただ、そこで水を飲まないように、同じ容器の器が二つあって、一方の器から水を口にふくみもう一方から吐き出します。量が変わっていないかで、水を飲んでいないことを確認されます。

トイレは行けますが、飲まず食わずで体力がないので、助僧に手伝ってもらいます。著者は大便は1回だけ、小便は最後のほうは1日1回だけだったそうです。

睡眠欲は3日目くらいからなくなります。そのため、修行の最後の方は意識がもうろうとするどころか、逆に冴えて研ぎ澄まされるそうです。実際、普段は聞こえない、琵琶湖の淵の大津京駅のアナウンスや電車の通過する音が聞こえてきたとか。私、大津京駅を利用したことありますが、比叡山からめちゃくちゃ離れてますよ。

生きることを否定する

仏僧の荒行は、すごいなあとしかいいようがありません。生きることを一度否定することで、生きることがラクになるのかもしれません。さいごに、印象的な一文を引用します。

堂入りも、生きることを否定するわけですから、つまり思うことや考えることを否定しないといけないわけです。思いや考えが頭の中に湧いて出てくることは一種の誘惑なので、それを消していくようなかたちでいかないといけない。ちょっと分かりにくい表現になっているかもしれませんが、わたしの中では、パソコンのデリート・ボタンを押すような感じというか、もう何かあったらパーン、何かあったらパーンと、消していくような感じでやっていました。そういう鍛練ということではないですが、堂入りを通じて、経験を積ませていただいたので、それを考えたら、次の日に持ち越さないというのは、それほど難しいことではないように思います。

 

youtu.be

ピースフルなお寺で水琴窟を見つけた

f:id:kuriedits:20181012193934j:plain

今日は坐禅会の前に、とある寺の茶屋に寄りました。雰囲気がむちゃくちゃ素敵で、1時間近く居座ってしまいました。途中座禅もしました。鳥のさえずりと、虫の音、庭師の声、それから少しだけ水の流れる音が聞こえるだけの、本当に静かで贅沢な時間でした。

こんな場所、なかなかないんじゃないかなあ。

お客さんは私以外には欧米の老夫婦と古老のガイドだけ。あまりに穏やかな時間なので、「peaceful・・・」と旦那さんが呟いてました。私は庭をボーっと眺めながら、今後の仕事のこと、自分が本当にやりたいことは何なのかを考えていました。答えは出ませんでしたけどね!

一切の生活音から切り離され、じっとしていると、心がざわつき、だんだんと落ち着かなくなってきます。ちょっと気持ち悪いかんじ。普段考えないようにしているこのざわざわと向き合うところから、いつも坐禅は始まるんです。

庭の端には水琴窟(すいきんくつ)がありました。水琴窟とは、水滴の落下音を響かせる仕掛けです。カンカン、コンコン・・・・。初めて聞く水琴窟の音は、金管楽器のような不思議な響きでした。ツイッターに上げた動画がありますので、是非音量を大きくして聞いてみてください。おもしろいです。

水琴窟の音に耳を傾けながら、あまりにも気持ちよくて満たされてしまったので、坐禅会はめんどくさくなってそのまま家に帰りましたとさ。(おい

f:id:kuriedits:20181012194102j:plain

 

夜のルーチンで仕事が劇的にはかどった話

f:id:kuriedits:20180928215130j:plain

禅ってルーチンの鬼だと思うんですよね。決まった作法を毎日繰り返す。そうすることでココロの乱れが少なくなる。そんな理解です。ルーチンって大事。イチローもそんなこと言っていましたよね?私もなるべくルーチンまみれの生活をしようと思っています。

ここ1週間くらい新しいルーチンを始めました。寝る前の夜23時50分から5~10分間の坐禅をしています。高層ビルの向こうの夜空を眺めながら「自分ってちっぽけな人間だなー」なんて思うと、日々の仕事の悩みも小さく見えます。

そのあと布団で1分間のストレッチをして、あとは原始的なゴリゴリマッサージを2~3分やってお終い。これやると、翌朝の目覚めが全然ちがうんです。疲れが劇的に取れます。当然、仕事の効率も上がります。睡眠時間を10~15分削るわけですが、2時間くらい余計に寝るくらいの効果があるような気がします。とくに心理ストレスの軽減が大きい気がします。

寝ても疲れがとれないんだよなあ、という方に是非おすすめです。

昨日は坐禅会に参加する前に、夜の坐禅のお供にと香(5本入り200円)と竹製香立(500円)を買いました。シンプルでよくないですか?寺の近くのお香専門店にはウン万円もする素敵な香炉がたくさんありました。すごいなーいいなーと見とれながら、今回は1000円未満ですませました。

私はお香を立てると喉が痛くなるので煙が少ないお線香をチョイス。煙が少ない理由を店員さんに聞いたところ、クスノキ科のタブをツナギに使い、煙があまりでないようにしているそうです(その分、香りは弱めっぽい)。使ってみたら喉も痛まず、香りもなかなかよかったです。見た目もいいし。

仏具ってファッションだと思います。お坊さんに怒られちゃうかな。

もうすぐ10月というに、蚊も元気で坐禅の邪魔

f:id:kuriedits:20180928212613j:plain

一気に冷えてきましたね。久しぶりの坐禅会参加。涼しくなったせいか、蚊が動き出しました。坐っていると蚊がぷ~んと腕にとまるのがわかります。それでも耐えて耐えて・・・うー辛かったっっ!

蚊の魔の手は他の参加者のところにも。30分も経ったころには彼らも我慢の限界に達し、思わず手で追い払っていました。なんと、棒を持って回るお坊さんまで、白い布を取り出して蚊を捕まえようとしてました。ちょw雑念www。

お坊さんは手でパチンとせずに、布で蚊を取るんですね。妙なところに感心してしまいました。

もうすぐ秋ですねえ。

「薬剤師と僧侶のミックスとして、そのままの自分で育った地域の役に立ちたい」/異色の薬剤師僧侶の挑戦【インタビュー】

f:id:kuriedits:20180823143006j:plain

患者さんから「なんだかお坊さんみたいだな」とよく言われるけど

今日は異色のお坊さんを紹介します。ただのお坊さんではありません。なんと、薬局で働く現役の薬剤師さんです。こちらのお茶目なツイートをご覧ください。

私自身も薬剤師です。ふだんは「ドラッグストアとジャーナリズム」というブログを書いています。といっても、最近坐禅に興味を持っただけの、ただの薬剤師です。

しかし、先の薬剤師僧侶はちがいます。

先日、ツイッター上でご本人と話していて、薬剤師と僧侶の二足のわらじを履いていることが判明。なぜ、そんな人生を!?私が今まで見聞きしたお坊さんは、どなたも専業僧侶でした。そもそも、兼業僧侶が存在することが初耳です。興味が湧きます。

ぜひお聞かせください!そうお願いすると、二つ返事で引き受けてくださいました。

というわけで、今回は薬剤師免許を持つ僧侶、ホーホケキョさんにご登場いただきます。私にとって現役薬剤師僧侶へのインタビューは初めてです。ドキドキワクワクしながら、非常におもしろい話を聞くことができました。

皆さんにもこの興奮が伝わると幸いです。

ホーホケキョさんの過去ツイートを挿絵として紹介しながらのインタビュー記事。

どうぞお楽しみください。

それでは、はじまり、はじまり。

 

f:id:kuriedits:20180823143600p:plain K(kuriedits)

 ãã¼ãã±ã­ã§H(hohokekyo)

 

※2018年8月中旬にツイッターのDMで行ったインタビューを編集して掲載

 

昼は薬剤師、家に帰るとお坊さん

(^▽^)/:この度はインタビューをお引き受けいただき、ありがとうございます。ホーホケキョさんには特にメリットのない企画なので心苦しいのですが(苦笑)、どうぞ最後までお付き合いください。

ホーホケキョさんは寺の息子に生まれ、薬剤師になったという大変珍しい経歴をお持ちです。二足のわらじを履いて仕事されているのですか?

 

ヽ(´▽`)/:よろしくお願いします! 平日昼間は薬剤師、家に帰るとお坊さん、境界こそありませんが、そんな生活を送っています。ただお寺と言うのが都会にある様な大きなお寺ではなく、都会から遠く離れた片田舎にある小さなお寺なんですね。なのでそう言ったスタイルが可能なんだと思います。

 

K:時々ツイッターに野生のウサギが登場しますよね。いいなあ~と思いながら眺めています(笑)

 

K:お坊さんの日常・お仕事って、想像つかないんですけど、具体的には何をされているんですか?

 

H:年中行事としては、お釈迦様や宗派ご開祖様の誕生日、入滅された日などに諷経をあげ、時には他の御寺院さんの法要のお手伝いに出かける事もあります。8月は盂蘭盆会(お盆)、スクーターでお檀家さん宅を回る棚経(たなぎょう)です。日々の生活の一端を見れば、週末はお檀家さんの法要があったり、やはりお寺は山の中、作務作務作務・・・雑草達と戯れています。

 

K:作務(さむ)とは掃除などを指す寺の言葉ですね。雑草を抜いたり、ですか。

 

H:時にはチェーンソーを持つ事も(笑)。私の友人でショベルカーの資格を取られた和尚さんもおりました。しかし行住座臥(ぎょうじゅうざが)、一挙手一投足、坐る時間が無い時でも日常生活全てが修行と思い過ごしています。

 

K:休日になるとツイッターばかりしている私のようなツイッター廃人とはちがい、ゴロゴロしてる暇は全然なさそうですね。

 

H:そう言われると週末明るいうちは何かしらやってますね。白衣だったり作務衣だったり、お袈裟だったりちょっと前までは地域に貢献消防団服も。 でも日が落ちれば、それはゴロゴロタイムもありますよ(笑)

 

K:あ、そうなんですね(笑)ちょっと安心しました。でもやっぱり忙しそう。

 

地域への恩返しで薬剤師を志す

K:お寺の息子に生まれたホーホケキョさんは、どうして薬剤師になろうと思われたのでしょうか?

 

H:薬剤師を選んだ理由、よく聞かれます(笑)ここはベタかもしれませんが化学・数学が好きでした、科学者ということばに目を輝かせてまして。祭事など古くて伝統的なものも好きでしたが、一方で新しくハイテクなものも大好きでした。

 

K:へー!

 

H:そんな中、今でも鮮明に覚えていますが、幼い頃にランドセルを背負って学校から帰宅してみると、近所のよくしてくれたお婆さんのお葬式が突然行われており、ご家族が悲しむ姿を目の当たりにする事がありました。お寺という場所柄、昔から自身の親族以外での身近な人の死に接する機会がとても多かった様に思います。

お寺だけでは生活が難しい小さな寺院、地域に育てられていた自分、憧れの科学者寄りで、地域に恩返し出来る仕事って・・・と出た結論ですね。

 

K:地域に恩返しできる仕事として薬剤師を選んだんですね。でもご実家がお寺ですから、ご両親から「仏教学科に行きなさい!」なんて怒られませんでした?

 

H:お寺だけでは生活が難しく、でもお寺はしっかり守らなくてはならない。 私の父(薬剤師ではありませんが)がそうであった様に小さい頃より兼務するしか選択肢はなかったんですね。仏教学科にも行って見たかったですね!

 

K:じゃあ、お父様はホーホケキョさんが薬学部に行くことに賛成だった?

 

H:反対はされませんでした。 こういう兼業のカタチを否定される僧侶の方も当然おります。でも私の周りをみると、ソーシャルワーカーのお坊さん、教師のお坊さん、建築家のお坊さんなど、訳あって他に職能を持つ方も実際には居ります。この道が僧侶としての生き方から外れているのか、答えは出ません。ただこれが私の選んだ歩むべき仏道だと思っています。

 

K:えっ!勤め人のお坊さんって結構いるんですか!?私の周りにも、普段は会社員で、週末は袈裟姿になる”隠れ僧侶”(?)がいるのか・・・。

 

国家試験を受けたのち、山に籠って修行の日々

K:大学時代はどんな学生だったんですか?

 

H:薬学部時代ですね、計らずも本山にほど近い薬科大へ入学し、皆さんと同じく、ごく一般的なキラキラした(?)キャンパスライフを送っておりました(笑)。逆にこの時期が一番お寺ライフから程遠い場所に居たのかもしれません。ただ、大学四年の冬、国試受験勉強真っ只中にお寺での大きな行事がちょうど重なってしまい、僧侶としての進退(所作)やお経、問答などを勉強しながら国試対策もで本当に必死でした。

 

K:それはツライ(笑)。社会人になる前から、お寺の手伝いをしてたんですか?

 

H:坐禅は小学生の頃、父より教わりました。また宗門のお経も時同じくして読んでいた記憶があります。ただ高校時代も含め手伝いと言っても、お寺の小僧よろしくで廊下の雑巾がけや仏具磨き、庭木の手入れ等々ほとんどが清掃作務でした。 そんな姿がさまになっていたのでしょうか、庭木の剪定中に「○○君(私の名前)いますか?」と遊びに来た友達から声をかけられた記憶が脳裏をよぎります。

 

K:先日ツイッターを見ててビックリしたんですけど、4年生の時に薬剤師国家試験を受けて、合格通知を得る前にすぐに山での修行に入られたそうですね。ふつうの薬学生は国家試験が終わると、勉強から開放されて最後の学生ライフを満喫するのものだと思いますが、そうではなかった?

 

H:アラフォー世代の私が国家試験を受けた当時は3月に試験、結果が出たのは4月を回ってからだったと記憶しています。国試って年々早まってますよね。 なので3月下旬に国試を受け、結果を待たず4月早々に上山、ひとり修行に出ました。修行の最中に「サクラサク」の電報ではありませんが連絡を受けました。

 

K:あ、そういえば私も3月試験でした。

 

H:都会の喧騒から離れ、山門をくぐった先にある、これから始まる未知の禅的生活に気持ちが高ぶっていた事を今でも覚えています。 

 

K:修行中に薬剤師合格の通知を受け取ったという話がでましたが、どんな気分でしたか?早く下山して現場に出たいとか?

 

H:合格通知が届いたのは修行に入って1ヶ月経った頃だった様に思います。「あ、受かってた」程度でした。自己採点して合格圏内だったからかもしれませんが、喜ぶ間も無くすぐに修行に戻った事を記憶しています。早く現場に行きたいと言う気持ちがなかったと言ったら嘘になります。同級生は今頃どんな仕事をしているのだろう?なんて周りと比較し何となく焦りを感じた時期もありましたが、何を思っても考えてもそこに意味はなく、今やるべき事は目の前にある事でしかなかったので吹き飛びました

 

K:山での禅修行に集中してたんですね!

 

仏僧が修行をする理由

K:これ、そもそもの質問になるんですけど、なぜお寺で修行をされたんですか?宗派によると思いますが、仏僧は寺で修行僧として一定年数を経なければ、寺の住職にはなれないという規則があると聞きます。ホーホケキョさんも、将来お寺を継ぐために修行道場へ?

 

H:なぜ修行が必要なのか。端的に言ってしまえば「ブッダは修行をして悟りを開いたから」です。 またkurieditsさんの仰る通り、私の宗派はまず師匠を見つけ弟子になり、その師匠からの許状を持ち修行道場で一定の修行期間を経て、そしていくつかの式を済ませなければ住職にはなれません。 これは宗制という規則があり、正式な手続きを得なければならないのです。 かく言う私も10歳で仏門に入り頭を丸めました(笑)

 

K:10歳から・・・。こんなミーハーな質問をしていることが恐れ多い気がしてきましたわ。

 

食事には宗派の教えがあふれている

K:山での修行とは、具体的にどんな事をするんですか?

 

H:基本的な修行僧の一日は起床・坐禅・朝の法要・朝食・清掃作務。その後は、法要の勉強や書道、また修行を長く積まれた方の講話を聞いたりと僧侶としての基本所作を学んでいました。

 

K:ここでも勉強するんだ・・・。

 

H:また修行僧にはそれぞれ役割が与えられており、受付窓口や法要担当、住職や役員さんに仕える者など、別の公務も担っています。かくいう私は食事担当。日々の修行僧の食事以外にも、仏様にお供えする仏飯や、来客時の一の膳、二の膳といったものまで供膳させて頂きました。昼の法要を挟んでそう言った日々公務を行じていました。その後は夕食、坐禅、就寝となります。

 

K:一番辛かった修行はなんでしたか?

 

H:一番辛かった事、う〜ん、なんでしょう? 修行に行ってから数日後に訪れる、世俗とのギャップから来る一時的なホームシックでしょうか(笑)。大学時代は一人暮らしだったので、深刻なものでは無かったです。「辛い!」っていうのはそれ程ありませんでした、共に修行をしていた方々もいましたので。

 

K:お寺の食事はヘルシーで健康的ですよね。最近は”寺メシ”なる本も出版されてるし。食事担当は実用的な修行ですね。

お寺ごはん

お寺ごはん

 

  

H:調理をする場でも繊細な教えがありまして、食材(いのち)を決して無駄にしない事、調理道具を大切に扱う事、おもてなす心を忘れない事などなど。たしかに調理という実用的な側面もあるのですが、此処彼処に宗派の教えが溢れている場でもあります。

 

下山して、地元病院で薬剤師としてスタート

K:修業は何年されていたんですか?

 

H:お山での修行は偉そうな事言えません、片手で収まる程度です。

 

K:山に籠って数年修行って、十分すごい経験だと思いますけど(笑)。修行を終えて、すぐに薬剤師として働いたんですか?

 

H:下山し地元戻り、もちろん就職活動なんてした事もなく、さぁどうしたものかと思い、とりあえず近くにあった病院に電話をしたんですね。飛び込みで募集をしているか確認した所、ちょうど空きがあり地元に戻り1週間経たずに無事就職する事が出来ました。 当日面接で「髪の毛は伸ばせますか?」と看護部長に質問を受けた事をよく覚えています。剃髪したてでツルツルでしたので。

 

K:あはは。 就職先には薬局、ドラッグストアもあると思いますが、病院を選んだのは”近く”以外の理由はありましたか。

 

H:病院勤務を選んだのは、大学在学中からベッドサイドをしっかり学びたかったからです。就職出来たのはラッキーでした。病院薬剤師で自分の基礎が作れればとも思っていたので。

 

なぜ、僧侶として生きるのか?

K:月並みな質問になってしまいますが、社会人として働き始めて、修業時代の経験が役に立ったことはありましたか?

 

H:修行は僧侶としての生き方を学ぶと言いますか、より研ぎ澄ます行いです。その処し方が役に立ったかと聞かれると返答しようがありません。ただ今でもそうですが、何かに迷えば仏の教えに戻り、また舵を切り直して日々過ごしでいます。

 

K:ここちょっと大事なところなので、話を広げますと、そもそも禅は何かを得るとか、ためになるとか、そのような損得とは離れたところにあると言われています。仕事の業績があがるとか、そういうものではないといいます。かくいう私は、損得を考えて2年程前に坐禅を始めたクチですが、毎朝数分だけでもベランダで背筋を伸ばして印を結ぶだけでも、ああ坐禅という行為を知ることができて良かったなあと感じます。でも、繰り返しになりますが、損得ではないんですよね。ではなぜ、僧侶という生き方を選ぶ人がいるのか。修行は悟りのためとお話されましたが、悟ることにどんな意味があるのか。私はそこが不思議です。

 

H:仰る通り坐禅の本質は確かに損得ではない所にあります。修行始めて間もなく、お経を唱える様に、また寝る様に、食事を取る様に、ただひたすらに坐禅を組みなさいと教えられました。僧侶という生き方は本来、お釈迦様の教えに少しでも近づくべく自ら悟りを求め、自己を高めるために修行を行い、ご縁のあった方々に教えを広め、そして幸せを感じて頂くための活動をします。また嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)といい、道元禅師が中国から持ち帰った法を師から受け継ぎ、また弟子へと繋いでゆく使命を含め悟りを求めながら担い日々を過ごしています。

 

K:ふんふん。

 

H:ただ、昨今僧侶は寺院存続のための相承によって出家される方も少なからずいらっしゃるのかと思います。そして私自身、寺の跡取りとして生を受け、幼少の頃より自分が後を取るんだなと言った漠然とした思いもあり、寺院の存続・相承の使命感を持ち出家に至った一人である事は間違いありません。もともと在家であったら僧侶と言う選択肢はきっとなかったでしょう。

先にも書きましたが、僧侶となるにあたり動機として充分なのか、そしてこの道が僧侶としての生き方から外れているのか答えは出ません。日常の雑事に流されながら、また日々自問自答していく事かと思います。

 

実家存続の危機で病院から薬局勤務、そして経営者へ

K:ホーホケキョさんのツイッターのプロフィールに「実家存続の危機で退社。ひょんな事から小さな薬局をひとつ、始める事となりました」とあります。これ初めて見た時からすっごく気になってます。

 

H:そうですよね、気になりますよね。ただ詳細を書いてしまうと身バレが(笑)。探さないで下さいとしか言い様がないのですが。 ざっくり話せば、師匠(父)の入院、身内のトラブルなど色々ありまして、病院勤務だとやはり夜勤もあるのですが、それ処では無くなり、時間的に融通のつけられる近所の職場を探したところ、とある調剤薬局にご縁を頂き就職する事が出来ました。

お世話になったその職場は社長がひとり薬剤師として切り盛りしている薬局。そんなところに加えて頂きました。 数年勤務したある日、社長から薬局を譲り渡したい旨の話がありました。その理由を掻い摘めば「他に色々やりたい事がある」、今でも尊敬している方です。この薬局を選んで来てくれている方、また従業員も居ります。経営なんて全く分かりませんでしたが、ここでNo.と言う選択肢はありませんでした。

 

檀家さんからお薬相談、時には僧侶姿のまま包括支援センターへ

K:僧侶で薬剤師で社長ですか。もう目が回りそう。その上、お子さんもいて、一人何役もこなされている。

 

H:ぐるぐるぐる。

 

K:薬局経営も、お寺の運営も、時代の流れの中で昔どおりにはいかないことが多々あると思います。そんな中で、いま一番の関心事はなんですか?

 

H:薬局経営と言ってもあまり昔を知らず、他の薬局経営者の方から見ればまだヨチヨチ歩きです。でも薬剤師も私を含め5名を超え、新卒薬剤師さんにも来て頂き、事務さん含めみんなのおかげでやりたい様にやっています。つい先日もお盆の最中、お檀家さんからお薬や健康の相談も受けたり、また急ぎでどうにかしてあげたい方の案件で、僧侶の格好のまま包括支援センターへ乗り込んで相談に行ったりも。一番関心のある事をまとめますと、薬剤師と僧侶のミックスとして、そのままの自分で育った地域の役に立つ事です。

 

K:うーん、薬局の地域密着には色々な形がありますが、僧×薬剤師は初耳です。

 

H:でも薬剤師としても僧侶としてもまだまだこれから、相乗効果が出せる日まで日々精進です。

対人関係や仕事で迷っても、仏道があるから立ち戻れる

K:よいお話を聞かせていただきました。最後にお願いがあります。これを読んでいる方の中には、ふだん宗教に関心のない方も多いと思います。

私自身は無宗教なんですけど、でも禅の作法や考え方と言うのは本当に興味深くて、「めっちゃおもしろいよ!」と言いたくて(おもしろいという表現が適当かはわかりませんが)、このようなブログを書いています。でも、私の筆力が乏しいばかりに全く伝わっていません(笑)。やはりここは、本職のホーホケキョさんの言葉が聞きたいです!

 

H:禅と言うのは自らを仏とし拠り所として、特別なことではなく、当たり前なことを真に感じるものだと思います。日々わかっているんだけれどもストンと落ちていない事、思考の外にあるそのモヤっとした部分に禅があるんじゃないかなと。例えば、先祖がいるから自分がいる、食卓に食べ物があればそれは命、当たり前な事で全ては出来ているんです。仏の教えも単純でみんなが知っている事。バカの壁と言いますか、なんだか難しく話す人がいるから難しくなる。禅の実践ってそんなに難しいものじゃないのです

 

K:ふんふん。

 

H:坐禅についてですが、マインドフルネスという観点から見れば、今、この場所にいる自分にその心とカラダを落ち着かせる事ができる方法としてとても良いと思います。脚下照顧(きゃっかしょうこ)と言いますが、インドへ自分発見の旅に出てもそれはプロットが増えるだけ。X軸とY軸の合わさる何処にまず自身を落ち着かせてみるとその広がりが分かるかもしれません。

僧侶としてお檀家さんにお釈迦さまの教えを説く身分ですが、仕事や家庭、対人関係で私もまだまだ迷います。でも、たとえ迷っても仏道があるので立ち戻れる。仏道は道しるべで自分の道が禅、そんな自分の真ん中に据え置ける教えがあると、またちょっと世の中生きやすくなったりするかも知れません。

 

K:禅や仏の教えというのは何も特別なことではないんですね。私も週1回、お寺で70歳を超えた老師の説法を聞いています。『無門関』(中国宋時代の仏教書)など難解な禅書を題材にすることもあるのですが、老師が言うことはいつも同じで、当たり前のことが多いんですね。でも、その当たり前のことを聞くために、どういうわけか私は、わざわざ寺に行ってしまいます。なぜかと考えると、目新しいもの、新奇性のあるものばかりが流行するネットの情報では得られない、感覚的にしか伝わらないものが確かにそこにはあるような気がします。

アップルのジョブズさん、JALを再建した京セラ創業者の稲森和夫さん、最近自民党総裁選候補に名を挙げた石破茂議員など、国内外の著名人を含め多くの方々が禅に興味を持つには、やはり理由があるのだと思います。だから、興味を持っていただけた方には「まずは一度、お寺で坐禅をやってみて」と言いたい。このたびは貴重なお話をお聞かせくださり、本当にありがとうございました。

 

 

いかがでしたでしょうか。禅や仏教の考え方を少しでも身近に感じていただけたら幸いです。

ホーホケキョさん、本当にありがとうございました! 御縁に感謝です!

読書感想:『現代坐禅講義』

今日はおすすめの本を紹介します。先日のブログでも取り上げたこちらの本です。

現代坐禅講義―只管打坐への道

現代坐禅講義―只管打坐への道

 

著者の藤田老師は1954年生まれの僧侶です。東京大学大学院の博士課程を途中退学して曹洞宗の僧侶になり、33歳で渡米して現地で禅の講義や座禅指導を行い51歳で帰国。神奈川県の葉山町坐禅会を主催しながら、サンフランシスコの曹洞宗国際センター所長として日本と海外を行き来しているという、只者ではない経歴の持ち主です。

本書は藤田老師の講義録のような形で進んでいきます。しかし、「坐禅とはこうです」といった結論がくるのではなく、老師自身が長年模索してきた坐禅を、一緒に追究していくような感覚で読むことができます。

かつての藤田老師にとって、正しい坐禅とは、なぞり絵のようなものだったそうです。手、足、頭、背中、など体の各部の位置を正確に位置づけ、点と点を描線で結んでいくと、坐禅になると藤田老師は考えていました。そこで、この点を増やせば増やすほど正確で正しい座禅に近づくと考えた藤田老師は、これまでの座禅指導にはあまりなかった細かい部分、たとえば「両手の親指の先を軽く合わせる、その接触点の位置」などを指導することで、厳密で間違いのない座禅の絵を描こうとしました。

しかし、あるとき、坐禅をしていてこれは違うということに気づいたそうです。道元禅師の『正法眼蔵随聞記』には「坐はすなわち不為(人間的作為が全くないこと)」とあるし、釈尊菩提樹の下で坐禅していた時に、頭はこの位置、手はこの位置で・・・などと自分の中の正しいとされる座禅の格好と実際を比べて理想形に近付けるようにしていたとは思えないと考えたのです。

ここから藤田老師の坐禅論がスタートします。

私のような座禅の初学者は、寺で「手はこの位置」「頭はまっすぐにして」と体のパーツごとの位置を教えられます。それはそれで誤りではないのでしょうが、本来の坐禅とはそういうものではないと語る藤田老師の話は実に刺激的でした。

この本の魅力は、坐禅は苦しいものでもなければ、肩を張ってやるものでもないということを教えてくれることです。本書では藤田老師と、ヨガ指導者や整体指導者との対談が掲載されていて、対談の次の一節は非常に頷かされるものでした。

「動かないでいるためには人間の身体を最高度に動かさないといけない」

坐禅は動かないものですが、動かないでいるためには、常に体のバランスを自然体でとる必要があり、バランスをとるために、動かないという動きを続ける必要があります。

じっと動かないのではなく、むしろ動くことで坐禅の型を維持するという考えにハッとさせられました。

若い仏僧が書いたある本の中で”禅の修行なんて全然おもしろくないと思っていたけどこの本を読んでそのおもしろさに気づいた”と紹介されていたことが、私がこの本を読もうと決めたきっかけでした。私のように坐禅を始めて1、2年のビキナーが、もっと座禅を深く知るための格好の一冊です。