瞑想したら世界が変わった

座禅を生活に取り入れてます。仕事に活かせるマインドフルネスをお届けします

善光寺参拝の見どころ4選と宿坊事情

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今年の春に信州は善光寺に行ってきました。善光寺坐禅してみたいなーと思いまして。

一人旅行です。寺に泊まろうとしたのですが、あいにく宿坊はどこも1泊2名から。善光寺にある39の宿坊のウェブサイトを確認しましたが、すべて2名からと記載されていました。諦めきれず善光寺の事務局に電話をしたところ、

「以前は1人で宿泊できるところもありましたが、いまはどこも2名からになっているんです」

とのこと。かわりに付近の宿を2つ紹介され、そのうちのひとつ、松屋旅館を利用しました。ネットの評価はまずまずで、料理も接客も丁寧で値段相応。とくに不快な思いもせずにお世話になりました。なにより善光寺の山門まで歩いて1~2分ですから、このアクセスの良さは最高です。

善光寺といえば「お朝事」という朝のお勤めが有名です。毎日6時半ごろから境内で行われる法要で、善光寺詣での名物となっています。善光寺のサイトには次のように説明されています。

善光寺無宗派の寺院ですが、天台宗と浄土宗の山内寺院によって護持されていますので、お朝事もそれぞれの宗派の法要が1回ずつ勤められます。時間はおよそ1時間です。

わたしも早起きして参加してきました。お朝事では仏教音楽「声明(しょうみょう)」を聞くことができます。わたし今年、東京上野で真言宗の声明を初めて聞いたのですが、正直あまりピンとこず、今回の天台宗と浄土宗のそれも、あまり心を動かされませんでした。高野山の朝の勤行の方が迫力はありますね。いや、迫力とか、そういう問題ではないのですけど。でも、鳥と鐘の音に耳を傾けながらの朝の参拝は気持ちいいですよ。こちらの動画をどうぞ↓

善光寺にはお朝事以外にも見所があります。ぜひ見ていただきたいのが善光寺史料館に納められた仏教レリーフです。史料館の解説によると仏教レリーフ鎌倉時代に最盛したそうですが、わたしは関東にある鎌倉でこのようなレリーフを見た記憶がありません。わたしが知らないだけなのか、あるいは比較的珍しいものなのか。もとは善光寺に掛けられていたというこのレリーフ。その迫力ある出来栄えに感動しました。

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善光寺の境内にある輪蔵も印象的でした。輪蔵とは多面体構造をしたお経の書庫で、一度回せば収納されたお経を全て読んだことになると云われています。輪蔵自体は特に珍しくはなく、多くの寺にあるものですが、善光寺の輪蔵は重さ3.8トンもある超重量級。一人で回すのは一苦労でした。

この輪蔵、回せばお経を読んだことになるのだから、考えてみるととんでもない代物ですよね。なんともズボラな人達がいたものだ、としか昔は思いませんでしたが、こうして久しぶりに輪蔵を回しながら、ああこれは読み書きができない民衆に布教し救済するための工夫だったのだろうなあと今更ながら感心しました。為政者にとっては別の思惑があったとしても、輪蔵システムに救われた人々もいたでしょう。善光寺の輪蔵の前には、輪蔵を創案したとされる傅大士(ふだいし)の像がありました。読めば497~569年に生きた中国の僧とのこと。まさかそんなに古いとは。その時代に読み書きできる者は一握りだったはずです。読経せずに輪蔵を回せばいいという簡便さに反発もあったと想像されますが、史実はどうだったのでしょう。そんな傅大士の像が見れるのも面白かったです。

それから、善光寺は夜も山門が開いていまして、みなさん自由に出入りできます。わたしは夜8時ころにふらっと足を運んだら、夜の光に照らされた寺が闇の中であまりに幻想的だったので、おもわずベンチに座りボーっと眺めてしまいました。夜の善光寺は静まり返っていますが、周りがひらけているせいか、物騒な雰囲気はまったくなく、ここちよい静寂が身を包んでくれます。境内を眺めていると、スーツを着た会社帰りの人、ランニング中の人、色々な地元の方々が手を合わせていく姿があり、善光寺が地元の方々の生活に溶け込んでいる様子がわかります。これも善光寺旅行の見どころだと思います。

というわけで、概ね満足の善光寺参拝でした。郷土料理もおいしいものばかりで大満足。しいていえば、うまい蕎麦にありつけなかったことと、当初の目的だった坐禅をする機会がなかったことが残念です。

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専門道場で太極拳をやってみた

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都内の専門道場で太極拳をやってみました。初体験です。費用は1時間半で2000円。おもしろかったです。

 

坐禅が高じて、太極拳をやってみたいなーと、ふと思ったのが数週間前。坐禅太極拳って、一見無関係に見えますけど、じつは通じるところがあるんです。

坐禅のノウハウの一つに数息観(すうそくかん)というものがあります。呼吸を1,2,3・・・と数えることで気持ちを集中させる方法です。このときのポイントは、呼吸に意識を集めることです。吐いた時の腹筋の動き、吸った時に鼻を通る空気の流れ、それら一つ一つをかみしめるように感じとりながら、ゆっくりと呼吸を続けます。

身体中に張り巡らされた神経、筋肉に注意を払いながら、一つ一つの所作を丁寧に行うわけです。

これは坐禅中に限らず、禅の作法では、日常生活の様々な活動において、いまその瞬間の行為に意識を集中させることを大切にします(わたしの理解では)。

そうやって普段から意識していると、歩き方をはじめ、日常の何気ない体の動かし方も変わってくるんです。これは本当におもしろいですし、坐禅を始めてよかったなと思う瞬間でもあります。

 

さて、いまから数週間前の夜。いつものようにベランダで短い坐禅を終えた後にふと思ったんです。

「そういえば禅の動きって、太極拳に似てるんじゃね?」

太極拳のことは全然しりませんけど、あれゆっくり動きますよね。あの丁寧さが、ちょうど禅の精神に通じるものがあると直感的に思ったのです。

そこで今回、太極拳に挑戦することにしました。

で、実際やってみて思ったのは、やっぱりこれ禅に似ているなあということです。体幹をしっかり支えて、背筋は伸ばしながら、ゆっくり動き続けます。終わったあとは、坐禅後のように背筋がしばらく(翌日まで)ピーンとなりました。

講師の先生のお話では太極拳にもいろいろ流派があるようです。巷の主流は24式、つまり24の型があり、それをひとつひとつ学んでいくそうですが、99式あるところもあり、その場合は週1回通ってもすべてやりきるまでは1年はかかるようです。

一見ただの健康体操のように見える太極拳は元来武術なので、その動きにはちゃんと他者と戦う上での意味があります。

「挙げた左手は上からの攻撃を防ぐために斜めにします」

「こぶしは縦にして突き出します。太極拳では親指人差し指中指に力を入れます」

といった解説がおもしろかったですね。

平日にもかかわらず参加者は老若男女さまざま。ほかの太極拳教室も調べた上で、太極拳を学ぶかどうかを決めたいと思います。

 

 

家に帰ってから、鏡の前で復習してみました。自己練習は相当難しいです。ちゃんとやるなら通わないとダメそう。

それから、もう一つ思ったのが、太極拳の動きは徳島の伝統芸能阿波踊り」にも似ているのではないかということです。足の運びがつま先からだったり、腰を落として重心を下げる動きだったり、動く速さは阿波踊りのほうが俊敏なんですけど、重なるところも多いのではないでしょうか。わたしにとっては、どちらも所作が大変美しく魅力的です。

実はむかし、数年間、地域の阿波踊りの団体(「連」といいます)に所属していた時期がありまして、へたくそなりに徳島の阿波踊りの祭りにも連として参加して踊ったことがあります。いまは膝を壊してやってませんけど、太極拳が上手くなったら、阿波踊りもうまくなるんじゃないかな・・・・。そんな気がしました。ヤットサァァヤットヤット!!

 

映画『禅ZEN』~大海のなかで水を見ない~

禅 ZEN

禅 ZEN

 

禅 ZEN』という映画を観ました。鎌倉時代曹洞宗を開いた道元という禅僧の物語です。2008年製作。主演は中村勘九郎さん。わたしこの俳優さん好きなんです。

映画ですから史実とはかけ離れたところもあるようですが、全体としてはハラハラしながらおもしろく観ることができました。中村さんの所作の美しいこと。さすが歌舞伎役者。体を売り生計を立てる内田有紀さんの体当たりの演技も光っていました。

さて、物語は、中国に渡り、禅を学び、帰国後に布教するも、当時の仏教界との軋轢で、土地を転々とし・・・という道元の苦難苦渋の道のりからスタート。民衆の支持を得て人気が出てくると、武装した比叡山の僧たちが道元の寺におしかけ脅したり焼打ちしたり、もう散々。焼打ちの事実は確認できませんでしたが、比叡山から迫害されていたのは史実のようです。比叡山こわい。

で、逃げるように日本海へ向かい、福井県でかの有名な永平寺を開きます。名を上げた道元の元に、こんどは鎌倉幕府から思いがけない報が。「鎌倉に行ってくれ」。鎌倉幕府北条時頼に呼ばれ下向することになります。

道元は時頼と初めて相対し、そこで禅の問答が繰り広げられます。これがこの作品のクライマックス。権力闘争で心を病み、錯乱する時頼に云った道元のセリフが、私はこの作品で一番印象に残りました。

「大海のなかで水を見ないようなもの」

水の中にいるのに自分で目隠しをして水を見ようとしない。自分の胸に手を当ててみると、そういうことありませんか?わたしはあります。答えはそこにあるのに、それを見ようとしない、見えない。いけませんね。

史実の発言かどうかは知りませんが含蓄のある素敵な言葉です。

大海の中で水を見るという、当たり前のことを当たり前にすることのむずかしさよ。そこが禅が与えてくれる気づきでもあります。

劇中ではこんな言葉も出てきました。

『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり』

この意味は、

「春は花が咲いて、夏はホトトギスが鳴いて、秋は月がきれいで、冬は雪があざやかで、ああいいなー」

ということのようです。ありのままを受け入れましょう、という教えの歌として登場しました。これは道元が詠んだ歌として歴史に記録されています。

鑑賞後、道元を見習って自分ももうちょっとガンバローと思える佳作です(なんて軽い発言・・・)。ご興味ある方は、ツタヤへゴー(もちろん『旧作』)!!

今日あなたをののしったあの人は

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先日、ある人から非常に心が傷つく言葉をぶつけられまして、その衝撃でふと、以前何かの本で見つけたとてもよい言葉を断片的に思い出しました。うろおぼえで、どこに書いてあったのかもわからないのですが、自分なりにアレンジしてここに記したいと思います。

 

今日あなたを、ののしったあの人は、あなたと同じくらい辛い事があり、あなたと同じくらい悔しい思いをして、でもあなたと同じくらい幸せを望み、あなたと同じくらい大事な人がいて、あなたと同じくらい毎日を充実して過ごしたいと願う、あなたと変わらない、ひとりのにんげん。

 

いつもこんな風に割り切れるほど私という人間は達観しているわけではないですけれども、こう思える瞬間を増やしていこうと思ってます。そのための”呪文”です。

坐禅というのは、心をとらわれないようにする行為だといわれています。

心はつねに色々な感情に揺さぶられて消耗します。感情に引きずられて心が穏やかではないときは、自分らしい判断やふるまいはできません。

自分らしい行動を取れる心構えの型を身につけられるのが坐禅のよいところだと思います。わたしは未熟者なので感情が揺さぶられること多々なのですが、それでも型を覚えたことは大きいですね。

一呼吸置く作業に、坐禅の呼吸法や、禅の考え方が役に立ちます。

冒頭の言葉も、その類書から見つけたものでした。バンテ・グナラタナの「エイトマインドフル・ステップ」だったかもしれません。八正道の解説書です。

8マインドフル・ステップス

8マインドフル・ステップス

 

 

『我慢』よりも『辛抱』しよう

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今日の都心は25度を超える夏日だったそうです。こちらの寺も緑がまぶしいのなんのって。お堂の裏庭で二羽の鳥が仲良さそうにグワグワと元気よく鳴いていました。

今日は老師が『我慢』と『辛抱』のちがいを説明されました。

曰く、『我慢』は我(われ)を押し殺すこと。我慢を超えると『辛抱』になる。辛抱は我慢とはちがい、我を押し殺さない。目の前のことをやり通すのみ。そして辛抱を超えると『三昧(ざんまい)』になり、自分というもの(我)がなくなる。

『我慢』は自分の気持ちを抑圧するイメージがありますが、辛抱は物事に耐えることに集中し、自分の気持ちをごまかしたり抑圧しているわけではない状態です。しかし、耐えると思っているうちは自分(我)というものが残っていて、それをさらに超えると自分(我)が意識から消える、つまり無心になれるというわけです。たぶん。

<我慢→辛抱→三昧>です。

何か辛いことがあったとき、自分がそれを『我慢』しているのか、『辛抱』しているのかを自問するとよさそうですね。老師は『辛抱』こそが大切とおっしゃいました。

坐禅も一度やってみて辛いからやめた、ではいかんぞと。

3日間、朝の寺で一人で坐禅して感じた『桜の花びらみたいな人生たち』

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いつもの寺の境内で、朝8:30から3日間連続で一人で坐禅をしてみた、その2日目のことです。じっと坐っていると、どこからともなく舞い降りる桜の花びらを視界に端に捉えました。坐禅中は視線を落として無心になるものなので、宙の花びらに気を取られてはいけないのですが、まあ、春です。風情があるのでそれをぼんやり眺めていました。

そして、眺めてるうちに、ふと、こんなふうに思いました。

わたしたちの人生って、まるで桜の花びらみたいだ。

枝から離れた花びらは地面に向かって落ちてゆく。いずれ地面に着く。人は生まれた瞬間から死に向かって不可逆的に進んでいく。いずれ死ぬ。

花びらの地に落ちるまでの時間は一枚一枚ことなる。風に舞いゆっくり地面に向かう花びら、雨に打たれて真っ直ぐ落ちる花びら。花びらの命運を左右する雨風には意志はなく、それは偶然でしかない。人の運命もまた、多くは自分で操作できない。

わたしたちは、桜の花びらみたいな人生で、落ちてく速度は異なるけれど向かうところは一緒で、みんないずれは死んでいく。

 

こうしてブログを書いている間にも、わたしは死に向かってあの桜の花びらのように落ちているのだと考えると、一日一日がいとおしくなります。

それはそれで、悪くないなと思えます。

たぶんこんなことを思ったのは、お寺に向かう電車の中で『よく死ぬことは、よく生きることだ』という本を読んだせいだと思います。ニューヨーク在住のジャーナリストだった著者の千葉敦子さんが癌で亡くなったのは、本書が世に出て3ヶ月後の1987年4月のことでした。三度の癌再発。その闘病と命の記録です。

千葉さんは癌になって「あの人は行いが悪いから癌になった」という周囲の意識を感じたそうです。本人に原因があると。でも、ほとんどの人生の死は、その人の行いとはさほど関係がありません。ましてや癌はなおさらです。著者はヘビースモーカーですらありませんでした。

多くの人の人生は、たぶん桜の花びらみたいなものではなかろうか。と私は思ったのです。

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

 

 

東京国立博物館の特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」、立体曼荼羅に感動!

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上野の東京国立博物館で、京都東寺所蔵の仏像がたくさん展示されていると知り、本日行ってまいりましたよ。チケット窓口で欧米の人たちが100人以上列をなしててびっくり。平日の上野は観光地なのね。

VR作品「空海 祈りの形」』という催しがありまして、これがすっごいよかった!6月2日までの期間限定なので是非行ってみてください。わたしのような教養に乏しい人は特にね。

www.tnm.jp

このVR作品は東寺にある21体の像を巨大モニターの高画質映像で再現したもので、一体一体に手が届きそうなほど近くまで近寄れます。いろいろな角度から像の陣形を見渡せるので『立体曼荼羅』の意味がよくわかりました。わたしは東寺に行ったことはないのだけど、正直、実物を観るよりもわかりやすいんじゃないかな。

 

空海密教曼荼羅を、実際の像を並べることで平面から立体で表現しようとしたんですね。これが『立体曼荼羅』。

密教は呪術的な要素が強いと聞いたことがあります。数年前に高野山の宿坊を利用したときも、大迫力の護摩には観光客がたくさん集まっていて、誰が見てもわかりやすいおもしろさがありました。視覚的なわかりやすさを追求した『立体曼荼羅』は、五感に訴える密教らしい発想から生まれた作品なのかもしれません。

空海は大衆向けの発想を持ったポップな人だったのかも?

ちなみに空海は「弘法筆を選ばす」という言葉があるくらい筆が上手かったことで有名です。今回の展示会場にはその空海の直筆の書がありました。興味津々で覗いてみたところ・・・・あれ?これうまいのかな?という印象。わたしは書の世界はよくわかりませんが、さほど上手とは思えませんでした。空海の書の横に展示されていた天皇の書はもっと下手でした(すいません汗)。昔と今では書の感性もちがうんでしょうか?うーん・・・。

 

とにかく、面白い展示会です。資料も充実してます。

館内のナビゲーションが密教をこう表していました。

密教とは、見つけることのできない”秘密”を求めるもの』

今年のゴールデンウィークは、”見つけられない秘密”を探しに来てはいかがでしょうか?