瞑想したら世界が変わった

座禅を生活に取り入れてます。仕事に活かせるマインドフルネスをお届けします

座禅してたら呼吸困難寸前になって死にそうになった

f:id:kuriedits:20180628203823j:plain

前日にふと思い立って、久しぶりに早朝座禅に行ってきました。朝5時前に起きて。

そしたらですね、座禅中に息が苦しくなって、気持ち悪くなって、いやほんと、倒れるかと思いました。人生初の過呼吸かもしれません。

最初はいつも通り、なにごともなく姿勢を正して座禅をしていたんです。10分くらい経ったころに、なんか呼吸が浅くて、息を吸っても肺までちゃんと空気が入ってこない感じなんですね。それがだんだん呼吸しにくくなって、呼吸が早くなって、やむをえず鼻呼吸から口呼吸になって、あれこれって”過呼吸”ってやつじゃないの?と思い始めたらますます苦しくなって、最後の方は背筋をまっすぐにすることすらままなりませんでした。なんとか座禅40分やりましたけど、かなりしんどかったです。ぶったおれるんじゃないかと思いました。まあ、終わったらケロッとしてその場を後にしましたけど。

早起きして睡眠時間が足りず体調がよくなかったことが原因なのかもしれません。いま過呼吸でググって調べているうちに、なんとなく呼吸が浅くなってきました。こんなの初めてです。お坊さんは座禅中に苦しくなったらどうするんでしょうか。

座禅したらまさかの大雨。雨宿りと朝食を兼ねてカフェで本を読んで、晴れたのでもう一回寺に行って写真撮ってきました。

早朝は静寂に包まれていた仏殿は、昼過ぎには外国人観光客で賑わっていました。

 

※外国の美女は1人だけいました

この意識を水の底に沈めたい

f:id:kuriedits:20180622192731j:plain

ハスの葉っぱの中心に溜まった雫です。なんだか幻想的だったので撮っちゃいました。

家の片付けなどで今日はお寺には行きませんでした。代わりに夕暮れ時にベランダに出て20分間ほど座禅しました。

お寺だと鳥の鳴き声や、風で戸が揺れる音などが聞こえる中で、気が付くと意識が水の中にずーっと沈んでいく感じがあります。体が一瞬、重力の縛りが抜けて、まるでプールの中に潜っていくようです。これが私の集中するときです。

でも、今日みたいに生活音が入るとどうしてこうも集中できないんでしょうか。自動車の音、電車の音、信号の音、人の声、それから何かわかりませんが、わさわさした音・・・それらがずーっと耳に入ってきて、意識が沈まずに水面でフワフワしてしまうのです。

うーん、慣れでしょうか?家で座禅する時間を増やしたほうがいいのかもしれません。

いいかげんバカになればいい!

f:id:kuriedits:20180615210309j:plain

今日は法話会に参加してきました。毎年開催されている、いろいろな和尚さんの”深イイ話”が聞けるイベントです。去年も行ってブログに書いてました。あれからもう1年ですか、早いなあ。

zennote.hatenablog.com

東京の寺で住職を務める50歳代の和尚さんの物語がとても興味深かったですね。

その和尚さんは昔、私がいつも通っている座禅会の老師の下で「臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)」という修行をしたことがあるそうです。

臘八大摂心は最も厳しい修行の一つで、8日間に渡ってひたすら座禅を組みます。休憩と称して横になることは許されません。眠くもなります、腰も痛くなります。そこで警策といって木の棒で背中をバシーンバシーンと叩かれます。何度も何度も叩かれるので、棒はやがて手元で折れます。

臘八大摂心が終わるころには、折れた警策が何十本と出来上がるそうです。

和尚さんが臘八大摂心を終えたとき、老師は折れた一つの警策に「放下著」と書いて、それを渡したそうです。

和尚さんが「放下著ってどういう意味だろう?」と思って調べると、これは「放り投げてしまいなさい!」という意味だったそうです。

放下著という言葉には次のエピソードがあります。昔、ある修行僧が修行の末に煩悩妄想を一切なくし、師匠に「私は煩悩などすべてなくしました。なにも持っていません。このあと何の修行をしたらいいでしょうか」と得意げに言いました。それに対して師匠が「放下著」と答えました。僧は意味がわからないでいると、師匠は「おまえさん、『なにもない』というのがそんなに大事なら、その大事なものを担いで帰りなさい」と言いました。そこで修行僧はやっと自分がまだ『持っている』ことに気づいた・・・という話です。

生きていれば全てを捨て去ることはなかなかむずかしいでしょう。もっていても、もっていなくてもいい。ただ、その執着はできれば捨て去ったほうがいいということ。和尚さんはそう言いました。

かつて修業の身だった和尚さんは老師の前で良い格好しよう、気に入られようと、そんなことに考えを巡らしていたそうです。すると、そんな心を見透かしたように、あるとき老師から「いいかげん、バカになりなさい!」と怒られたそうです。

老師がしたためた「放下著」には「放り捨てて、バカになりなさい」というメッセージが込められていたのかもしれません。

「わかったかの?わからんじゃろ?最初はそんなもんじゃ」

f:id:kuriedits:20180609103505j:plain

今年も紫陽花の季節になりました。きれいですね。はすの葉っぱも、やたらに茂っていました。

座禅会に行ってきました。35分くらいの座禅です。えー2度くらい、寝落ちしました。眠くて眠くて・・・。それだけ気持ちいいんです。終わった瞬間、座禅サイコーって思いました。この先、人生で辛いことがあっても、座禅があったらちょっとなんとかなるんじゃないかって本気で思えるくらい、座禅て気持ちいいんです。何度かやってるとわかってくるんですね。

今日の法話もむずかしかったですね。題材は中国の仏教書「碧巌録」。弟子が師匠を訊ねたら、「はるばるよくきたなあ」というねぎらいの言葉もなく、紙に丸(円相)を描いて、ドアをぴしゃりと締めたという話です。んー、意味不明ですね(笑)。

今日は初参加の20代くらいの人たちがたくさんいました。法話を終えた老師が「(法話の内容が)わかったかの?わからんじゃろ?最初はそんなもんじゃ」と言ってました。何度聞いてもわからない私がここにいますよ。でも、座禅みたいに、そのうち魅力がわかってくるといいなあ。

夜の座禅も始めました

f:id:kuriedits:20180518213932j:plain

なんか忙しくて久しぶりの座禅会参加でした。30分の座禅だったんですけどね、いやー、久しぶりだと結構つらいですね・・・。

老師の講和を聞いたのも久しぶり。相変わらずわけがわかりませんでした。体露金風という話でした。

なぜか肩が凝ってしまいました。自宅で使っている座禅の布団と、座禅会で使う単布団は高さが違うので、それも影響しているのかもしれません。

ところで数日前から自宅で夜も座禅するようになりました。ベランダで数分間だけの座禅ですけど、やると気分がちょっと変わりますね。やっぱりいいです、座禅。

これまで続けてきた朝座禅に加えて、心地良い習慣をもう一つ増やしたいと思います。

 

 

座禅の習慣にGoogle Homeを使うと超快適でした!

Google Home 完全ガイド

Google Home 完全ガイド

 

最近グーグルホームミニを買いまして、朝の座禅に使っています。

私の朝の習慣は、寝室から出て、まず顔を洗い、それからパンにマーガリンを塗って、トースターにいれてタイマーをセットして、その間にベランダに出て数分間の座禅をすることです。

このとき座禅する時間を、いままではスマホのタイマーを使っていたのですが、最近はグーグルホームをベランダに出して、声でタイマーをセットしています。

これが想像を絶するほど快適、便利なんです。もっともっと、色々使えそうだなあと感じています。

音声機能、最高です。

山村に生まれて名刹の住職になった或る老僧の一生

f:id:kuriedits:20180419184433j:plain

山村に生まれ、幼少期に寺に出されて、大学にもいかず、座禅の修行三昧。そんな、今の時代では想像できないようなキャリアを積んできた仏僧がいます。

私が座禅に通っているお寺は関東圏ではわりと有名な古刹でして、写真の通り立派な門(国重要文化財)があり、週末には多くの観光客でにぎわいます。そんなお寺の住職をつとめる老師の、これまでの人生を振り返った書籍を最近たまたま見つけて読んだところ、けっこう衝撃的だったのでここに紹介させていただきます。

今の時代、たぶん、こういう人はもう出てこないと思います。

 

私が通っているお寺の老師は、今から70年以上前に岐阜県の山村で生まれました。5人兄妹の上から3つめ、父親と母親は病気で臥せりがちで、生活は厳しく、小学3年生の時に否応なく寺に出されたそうです。「坊さんになれ」。そういって亡くなった父親の遺言でした。

8歳から10年間を寺の小僧として過ごしました。寺の中では一番下っ端。あれもこれも仕事を振られ、厳しい師匠からは法式など寺のことを徹底的に教え込まれました。520文字からなる「観音経」はそらで言えるようになり、さらに難しい「金剛経」でさえ、わずか小学5年生で口からスラスラとでるようになりました。

10年が経ったとき、行く先がなくて、19歳の時に京都のお寺で僧として修行することになりました。幼少期から寺小僧生活を経ていましたが、そこからさらに18年間を寺で過ごし、座禅、托鉢、作務といった修行に勤しむことになります。

僧堂に入ってまず驚いたのは「なんで皆はこんなにお経がヘタなんやろう」ということでした。長かった小僧生活は、いつの間にか周囲をはるかにしのぐほどの寺の作法を身に付けさせていました。掃除をやらせても、お経を読ませても抜群にできました。7、8年経ったころには怖い者なしに。しかし、先輩から生意気だと目を付けられげんこつで殴られるいじめにあいました。また、修行を共にする僧たちは、大学を出た者や、寺の息子が多かったので、自分が貧しい出であることは恥ずかしくて口にすることはできませんでした。

禅宗の修行は厳しいと言われます。とくに12月になると「臘八大摂心」と呼ばれる1年で最も過酷な修行が行われます。不眠不休で1週間座禅を組むのです。足の痛みも五体の感覚もなくなった状態で8日目の朝をむかえるという禅宗の辛い修行でした。寺の仕事はなんでも器用にこなしたものの、師匠とは噛みあわなくして叱られ、修行も面白くない。「座禅などしてなにになるのか」と何度も思ったそうです。

同期は年を追うごとに修行を終えて道場を去っていきました。落ち着く先もなく、「養子にしたい」という余所からの声もかからないまま、歳も30半ばになったころ、ようやく知り合いの紹介で、関東のお寺の住職につくことになりました。36歳の時です。その後、47歳になって現在の寺の管長に就任。若手の僧の指導にあたり、いまも日本有数の寺の住職として活躍しています。

老師の人生というのは、いま流行の書籍で推奨されているような「キャリアプランを立てよ」「楽しいことを仕事にしろ」「合ってない職場はさっさと転職しろ」といった生き方論・働き方論とはまるで逆です。老師の人生は、まさに行雲流水、選り好みなく、あてもなく流れついたかのようです。目的や計画がないと不安になってしまう今の私には、絶対に真似できません。

「あっちこっち変わって、歩くということはその人の一つの運命やな。わしも家を出て、小僧に行って、僧堂に行ってあっち行って、こっち行って・・・。たぶん僧堂時代に『もういやになった』と、よそへ転錫してたら、今ここにはいないわ。いい加減に要領ばっかり覚えていると思うわ」

老師は長く厳しかった修業時代をこう振り返っていますが、そこに悲惨さや、重苦しさはありません。座禅会で講和する老師の姿も、威厳のあるお坊さんというよりは、ひょうひょうとして軽やかです。近年の寺の盛隆について、老師はこんな風に語っています。

「(寺の発展は)俺のおかげじゃないわ、こんなものは。皆がそういう気持ちで一つになれたからできたことであって。わしなんか何にもしてないわ、あるい意味じゃ。たまにうるさいこといって嫌われたくらいがオチなくらいで。それも一つの仕事じゃろうからな」

名刹の住職を務める僧の中には、一般向けの啓蒙書を書く人たちがいます。私が知る限り彼らのほとんどが大学出身者です。講和を聞いていても、とても洗練されていてわかりやすく上品です。それに比べ、座禅会で「かっかっかっか」と高笑いしながら「空(くう)とはからっぽ。宇宙一杯なんですよ」などと聴衆を遠慮なく置き去りにしながら語りかける老師は、かなり異質な存在なのかもしれません。日本の仏僧の多くは妻帯者ですが老師は独身です。

山村に生まれ、10年の小僧生活、18年の修行道場生活・・・そんな人は、いまの日本でこの先、出てくるでしょうか?

一人の老僧のお話でした。