てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

わたあめのような仏教

9月最後の週。新型コロナのせいで、ずっと止まったままになっていた、座禅を自由にしてよい境内の一角が、いつの間にか再開していました。3年ぶりくらいでしょうか。

10月も間近というのに、夕方になっても気温は下がらず、28度。額からふきでる汗に煩わしさを覚えながら、一人で座禅をしました。観光客が次々とやってくるけど、やっぱり自分は、ここが落ち着く。

この週は仏教の輪読会に参加しました。ZOOMで繋がった参加者は全員ビジネスパーソンで、仏教ってなんか面白いよね、という軽い気持ちで、みんなで語り合うというものでした。

誰かが「仏教は毎回、気づきがある」といい、別の誰かが「仏教は深いですね」といい、そんなふうに、ふわふわした、まだ誰も実像を掴みきれていないこの仏教というものを、どこから口をつけていいかわからない夏の縁日の大きなわたあめみたいに、みんなで大切に扱いながら、難解な用語は使わずに、平易な言葉から積み重ねていこうというような明確な意志を感じる時間でした。

いつもは言語化やロジックをよしとする人々が、そういう態度であることも、私にとっては新鮮で、己が学ぶべき姿勢のように思いました。

「不立文字(ふりゅう-もんじ)」。仏教では、文字や言葉にとらわれないことを表す言葉で、私はこの言葉が好きです。