てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

『Do not stand at my grave and weep』

「クロが眠るお寺に行こう」。ちょっとした旅行気分で妻に声をかけたのは、5月の終わりのことでした。

11年ほど一緒に暮らしたウサギのクロが昨年の6月5日に亡くなって、もうすぐ1年が経ちます。クロのなきがらは業者の手を経て、千葉県の木更津にあるお寺で供養されました。一度はそのお寺に手を合わせに行きたいね。当時、そんな話を妻としました。もうすぐ命日。寺に行くには、ちょうどよい節目。そこで、妻に伝えました。

「もうすぐクロの命日だよ」

じゃあ、お寺に行ってみようか、という前向きな返事を期待していた私にとって、しかし、全く意外な言葉が返ってきました。

「そうだっけ?あんまり思い出したくないから、覚えていない」

「クロが供養されているというお寺に行ってみない?」と私が尋ねると、

「私はもうクロは生まれ変わって、どこかで跳ねてると思ってるんだ。だから、そのお墓にはクロはいないんじゃないかな」

 

2006年に歌手の秋川雅史さんが歌う「千の風になって」がヒットし、NHK紅白に出演するほどの社会現象になったことを、どれだけの人が覚えているでしょうか。「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」という歌詞で始まるこの曲は、琴線に触れるバラードとして一過的に消費されることを許さず、思いがけない形で、一つの波紋を広げました。

「亡くなった私の家族は、お墓に眠ってないの?」

そんな質問を遺族から受けるお坊さんが、この曲のヒットで多くなったというのです。大事な人がお墓に眠っていないのならば、私たちは、いったい、どうしてわざわざ、お墓を作り、そして手を合わせるのか。

お墓は、その人を思い出すための物理的な絆としての役割を持つ、というのが仏教におけるお墓の、般的な理解です。仏教では、お墓に故人が眠っているとは考えていません。故人はあの世にいます。

故人に思いを馳せ、感謝する。そうした精神的な装置としての役割がお墓にはあるとされています。

クロはもう、私たちのことなんかすっかり忘れて、どこかで生まれ変わって、そこそこ、楽しくやっているのかもしれない。私とクロを繋ぐ糸は、完全に途切れて、二度と交わることのない別々の道を歩いているのかもしれない。でも、姿形を変えて、知らないところで、また交わることもあるかもしれない。

そんなことを考えると、妻の答えは、そっけなくて、肩透かしでしたけど、ま、いいかとも思えてきました。

千の風になって」の歌詞は、詠み人知らず。起源は1930年代の米国の女性の詩「Do not stand at my grave and weep」であるとされています。