てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

人生舞台の役者たち


寺までの細い道を歩いていると、灰色の視界の向こうから、くぐもったスピーカーの「大雨洪水警報」を告げる声が流れてきました。6月上旬、季節外れの大雨が関東を襲って、朝から先も見えないほどの土砂降り。朝10時までカフェでコーヒーを飲みながら、いつくかの雑務を終わらせたあとで、豪雨の中を小走りで、法話会が開かれるいつもの寺に向かいました。

いくつかの寺の住職たちが、入れ替わりで法話を語るという会で、20人ほどの聴講者が参加していました。この大雨だというのに。そのなかで、交通機関の乱れから到着が遅くなり、話者の順番を変えてまさに今から話そうという山梨県の寺からわざわざ来た、50代くらいののっそりした住職が、こんな話をしました。私のメモと記憶をもとに起こすので、細部の誤差はお許しください。

さて、どんな人にも、その人にしかわからない苦しみがあります。私にもあります。ゆうべ数えたら10個以上ありました。最近だと、うちの寺の後継者のこと。長男が別の仕事に就いてしまいまして、どうしようと悩んでます。檀家さんからきつく言われました。後継いなかったら寺を出てくんでしょ?なんて。ハァ〜・・・。

人間の煩悩の数は、8万4000個あると言われてます。108ではなく。これは、8万4000あるというよりは、それくらい無限にあるという意味です。煩悩は雑草のようなものです。抜いても抜いても、生えてくる。まあ、(仏教は)除草剤のようなものですな。

職場の人間関係で悩んでいる人もいるでしょう。あの人、いやなんだけど、毎日職場で会わないといけない。憎んでも、嫌っても、相手は変わらない。自分が変わるしかないんですな。

人生はドラマです。主人公は自分で、演じているわけです。嫌な人も同じです。私という人生ドラマを、盛り上げる人として、嫌な人役を演じてくれているわけです。だから、死の向こう側から見たら、どんな人もありがたい俳優なんだと思えるんじゃないでしょうか。人間死んだら「一巻の終わり」といいます。人生は「一巻」なんです。

 

人生をドラマとして捉えてはどうだろうという住職の話を聞いて、私は人生という舞台に考えを巡らせました。舞台に立てなかった人、舞台に立ったと思ったらすぐに閉幕してしまった人、そういう人たちの存在を、ふと思いました。それから、ひょっとすると、自分も前世で待機して、ようやく舞台の順が回ってきた人間なのかもしれないと思いました。だとしたら、こうして人生舞台に立っていることは、とてもありがたいことだ。

境内の間に、与えられた時間の終わりを告げる細い鐘の音がチーンとなると、さ、おしまい、とばかりに、住職はさっさと舞台を降りていきました。

 

余談。正直なところ、法話には語り手によって、上手いと下手があります。両者の違いはなんだろうか?と思いながら、住職たちの法話を聞いていました。そんなおり、法話のノウハウを記した書籍を見つけました。これは気になります。