山村に生まれ、幼少期に寺に出されて、自分の寺も持たずに何十年もひたすら修行三昧。そんな、今の時代では想像できないようなキャリアを積んできた仏僧がいます。
私が座禅に通っているお寺は有名な古刹でして、週末になると多くの観光客でにぎわいます。このお寺の住職をつとめる老師の、これまでの人生を振り返った書籍を最近たまたま見つけて読んだところ、けっこう衝撃的だったのでここに紹介させていただきます。
今の時代、たぶん、こういう人はもう出てこないと思います。
私が通っているお寺の老師は、今から70年以上前に岐阜県の山村で生まれました。5人兄妹の上から3つめ、父親と母親は病気で臥せりがちで、生活は厳しく、小学3年生の時に否応なく寺に出されたそうです。「坊さんになれ」。そういって亡くなった父親の遺言でした。
8歳から10年間を寺の小僧として過ごしました。寺の中では一番下っ端。あれもこれも仕事を振られ、厳しい師匠からは法式など寺のことを徹底的に教え込まれました。520文字からなる「観音経」はそらで言えるようになり、さらに難しい「金剛経」でさえ、わずか小学5年生で口からスラスラとでるようになりました。
10年が経ったとき、行く先がなくて、19歳の時に京都のお寺で僧として修行することになりました。幼少期から寺小僧生活を経ていましたが、そこからさらに18年間を寺で過ごし、座禅、托鉢、作務といった修行に勤しむことになります。
僧堂に入ってまず驚いたのは「なんで皆はこんなにお経がヘタなんやろう」ということでした。長かった小僧生活は、いつの間にか周囲をはるかにしのぐほどの寺の作法を身に付けさせていました。掃除をやらせても、お経を読ませても抜群にできました。7、8年経ったころには怖い者なしに。しかし、先輩から生意気だと目を付けられげんこつで殴られるいじめにあいました。また、修行を共にする僧たちは、大学を出た者や、寺の息子が多かったので、自分が貧しい出であることは恥ずかしくて口にすることはできませんでした。
禅宗の修行は厳しいと言われます。とくに12月になると「臘八大摂心」と呼ばれる1年で最も過酷な修行が行われます。不眠不休で1週間座禅を組むのです。足の痛みも五体の感覚もなくなった状態で8日目の朝をむかえるという禅宗の辛い修行でした。寺の仕事はなんでも器用にこなしたものの、師匠とは噛み合わなくて叱られ、修行も面白くない。「座禅などして、何になるのか」と何度も思ったそうです。
同期は年を追うごとに修行を終えて道場を去っていきました。落ち着く先もなく、「養子にしたい」という余所からの声もかからないまま、歳も30半ばになったころ、ようやく知り合いの紹介で、関東のお寺の住職につくことになりました。36歳の時です。その後、47歳になって現在の寺の管長に就任。若手の僧の指導にあたり、いまも日本有数の寺の住職として活躍しています。
老師の人生というのは、いま流行の書籍で推奨されているような「キャリアプランを立てよ」「楽しいことを仕事にしろ」「合ってない職場はさっさと転職しろ」といった生き方論・働き方論とはまるで逆です。老師の人生は、まさに行雲流水、選り好みなく、あてもなく流れついたかのようです。目的や計画がないと不安になってしまう今の私には、絶対に真似できません。
「あっちこっち変わって、歩くということはその人の一つの運命やな。わしも家を出て、小僧に行って、僧堂に行ってあっち行って、こっち行って・・・。たぶん僧堂時代に『もういやになった』と、よそへ転錫してたら、今ここにはいないわ。いい加減に要領ばっかり覚えていると思うわ」
老師は長く厳しかった修業時代をこう振り返っていますが、そこに悲惨さや、重苦しさはありません。座禅会で講和する老師の姿も、威厳のあるお坊さんというよりは、ひょうひょうとして軽やかです。近年の寺の盛隆について、老師はこんな風に語っています。
「(寺の発展は)俺のおかげじゃないわ、こんなものは。皆がそういう気持ちで一つになれたからできたことであって。わしなんか何にもしてないわ、ある意味じゃ。たまにうるさいこといって嫌われたくらいがオチなくらいで。それも一つの仕事じゃろうからな」
名刹の住職を務める僧の中には、一般向けの啓蒙書を書く人たちがいます。私が知る限り彼らのほとんどが大学出身者です。講和を聞いていても、とても洗練されていてわかりやすく上品です。それに比べ、座禅会で「かっかっかっか」と高笑いしながら「空(くう)とはからっぽ。宇宙一杯なんですよ」などと聴衆を遠慮なく置き去りにしながら意味不明なことばかり語りかける老師は、かなり異質な存在なのかもしれません。日本の仏僧の多くは妻帯者ですが老師は独身です。
山村に生まれ、10年の小僧生活、18年の修行道場生活・・・そんな人は、いまの日本でこの先、出てくるでしょうか?
一人の老僧のお話でした。