てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

手段が目的になりつつあることへの不安

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座禅会に行ってきました。今日も気持ちよく30分間の座禅をすることができました。終わった後で、

「今日はうまくいったな」

と満足していたのですが、すぐに、

「ちょっと待てよ」

と思い直しました。坐禅はもともと、上手くいくとか、いかないとか、そういうものではないんです。ただ坐る。それだけの行為なんです。ですから、

「うまくいったぞ」

なんて思っているうちは、まだまだなんですね。

それはわかっているのですが・・・でも、と思いました、実際はその日その日によって出来不出来があります。私が座禅をするのには、”心をさっぱりしたい”という目的があるからです。その目的を達成できれば上手くできたことになりますし、そうでなければ上手くできなかったということになります。

本当はこういう目的を持つこと自体が坐禅の在り方とは外れることはわかっています。「こうしてやろう」とか「こうあるべきだ」というところから離れるのが坐禅なのです。

だから坐禅をちゃんとやろうとすればするほど、「心をサッパリしたい」という当初の目的から離れていくことになります。

となると、今度は心をサッパリするためにやっているはずの坐禅が、坐禅をすることそれ自体が目的になってしまいます。手段が目的にすり替わってしまうのです。

私の経験上、これは危険なことです。どんな時でも、目的を見誤ってはいけません。

坐禅を始めてもうすぐ2年。どうやって坐禅と向き合えばいいのか、ちょっと困っています。

身体操縦と人間の自由についてわかったこと

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突然の呼吸困難にみまわれた前回の座禅から1か月が経ちました。相変わらずみぞおちのあたりに違和感があります。自然気胸の可能性もあり受診しましたが、異常なし。そのうち風邪にかかって、7月からずっと体調不良。夏バテなのか、なにか原因があるのか、わかりません。

というわけで、久しく遠ざかっていた座禅会に本日、久しぶりに参加しました。また呼吸困難になるんじゃないかと怖かったのですが大丈夫でした。計40分間の座禅で、30分間はかなり気持ちよくできました。最後の10分はしんどかったですね。

 

この1か月ほど「現代坐禅講義」という座禅について書かれた本を読んでました。

現代坐禅講義―只管打坐への道

現代坐禅講義―只管打坐への道

 

これ、すごくおもしろいです。

いままで自分が「これが座禅だ」と思っていたものがことごとく否定されていて、私の中の(浅はかながらも)座禅観が大きく変わりました。

一言でいうと、座禅をするときの手の位置や呼吸法や姿勢に「こうでなくてはいけない」というのはない、というものです。どんなやりかたであってもいいのです。それどころか、「こうあるべきだ」と形にこだわるのは本来の座禅ではないというのですから、これは驚きです。

今回は本書の詳細は省きますが、この本に「坐禅は形にこだわってはいけない」と突きつけられてから、座禅のやり方がわからなくなってしまい、毎朝の座禅もぎこちなく座りの悪い状態が続いていました。今日はこの本を読みながら寺に行き、本書にあるように「気持ちよく、体が求めるままに座禅をしよう」と心に決めて挑んだところ、存外、非常に気持ちよく、うまくいきました。

体を意志でコントロールしようとするのではなく、体の声に耳を傾けながら姿勢を決めるという方法があることを今日、身を持って体験しました。「腰をまっすぐにしよう」「肩を落とそう」などと体を操る意志を持つことは、「私」と「体」を分離させる行為であって、「私」が規範に捕らわれている、不自由な証なのだと思います。

「こうあるべき」という規範から自由になるのが座禅です。座禅のおもしろさを、また一つ知ることができた気がします。