てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

手段が目的になりつつあることへの不安

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座禅会に行ってきました。今日も気持ちよく30分間の座禅をすることができました。終わった後で、

「今日はうまくいったな」

と満足していたのですが、すぐに、

「ちょっと待てよ」

と思い直しました。坐禅はもともと、上手くいくとか、いかないとか、そういうものではないんです。ただ坐る。それだけの行為なんです。ですから、

「うまくいったぞ」

なんて思っているうちは、まだまだなんですね。

それはわかっているのですが・・・でも、と思いました、実際はその日その日によって出来不出来があります。私が座禅をするのには、”心をさっぱりしたい”という目的があるからです。その目的を達成できれば上手くできたことになりますし、そうでなければ上手くできなかったということになります。

本当はこういう目的を持つこと自体が坐禅の在り方とは外れることはわかっています。「こうしてやろう」とか「こうあるべきだ」というところから離れるのが坐禅なのです。

だから坐禅をちゃんとやろうとすればするほど、「心をサッパリしたい」という当初の目的から離れていくことになります。

となると、今度は心をサッパリするためにやっているはずの坐禅が、坐禅をすることそれ自体が目的になってしまいます。手段が目的にすり替わってしまうのです。

私の経験上、これは危険なことです。どんな時でも、目的を見誤ってはいけません。

坐禅を始めてもうすぐ2年。どうやって坐禅と向き合えばいいのか、ちょっと困っています。