てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

うさぎの時間、人間の時間

f:id:kuriedits:20210611233110p:plain

飼っているうさぎのクロが、目頭の白い部分が片目だけ膨れているように見えて、心配になり動物病院へ連れて行きました。初老の獣医の見立てでは目に特に異常はないそうで、目やにを取るための目薬をその場でさして、目のマッサージをしてもらいました。手慣れた手つきでうさぎのまぶたをぐいっと上げて目薬のさしかたを私に手ほどきしてから、この目薬と目のマッサージを自宅でも1日4回繰り返してくださいと言って、それで治療は終わりました。

この日測ったうさぎの体重は2キログラムでした。2年前に手術のための来院した時と全然変わってないね、すごいねえ、と獣医が甲高い声をあげるのを、私はそんなに驚くことだろうかと思いつつ、はあ、と生返事をすると、だって、うさぎの1年は人間の6年に当たるのよ、もう10歳だからね、偉いわね、食欲は落ちてない?大丈夫?と言葉を継いでく獣医の少し心配そうな表情を見て、私はようやく、高齢であるクロが人間でいえば12年間も同じ体重を維持していたほど健康に恵まれていたことを知り、そして、急にこのうさぎが、本当はいつ大病したり死んでもおかしくない年齢であるという事実を、平和な日々の中でにわかに突きつけられたショックで、自分でも驚くほどの動揺がからだじゅうを駆け巡っていくのがわかりました。

クロは10年前に、よその家で生まれて、間もなく我が家に引き取られました。その頃、妻はとても辛いことがあって気持ちがふさがっている時期で、そんな時にたまたま近所のコンビニでうさぎを譲りますという張り紙を見つけた私は、そういえばいつだったか妻がネット動画でうさぎを見ながらしきりに可愛い可愛いを繰り返していたことを思い出し、私はうさぎに全く興味はなかったけれど、少しでも妻が元気になってくれればと思いながら、「ねえ、近所にうさぎが余っているらしいから、飼わない?」と持ちかけ、急にどうしたのと驚く妻を連れてある晴れた休日にうさぎをもらいに行ったのでした。

それから10年間をクロと過ごしてきました。うさぎの10歳というのは、人間でいうと80歳くらいに当たるそうです。基本的には毎日元気ですが、ここ数年は以前よりも随分食欲は落ちたなという印象でした。でも、やっぱり元気だし、見た目は多少白毛が混じっているくらいで、10年近くを過ごしてきたいつものクロの姿とあまりに変わらないから、このままずっと、まだまだ元気でいるような気がしていたのに、もうクロに残された時間は、私が思うよりはずっと少ないんだということを、受け止めきれずにいます。

うさぎは自分の名前を呼ばれるとわかると言いますが、クロは名前を呼んでも無反応で、それがたんに自分の名前を理解していないのか、理解したうえで無視しているのかは、わからないような、あまりコミュニケーションが取れないうさぎではあるけれど、リビングで遊ばせている時に私の体を鼻先でツンツンと突く習性だけは、あ、こいつはもうすぐ私にツンツンするな、といつもそのタイミングを確実に予言することができるくらいには、お互いのことはわかっていて、そんなクロの人格というか精神年齢というか、そのようなものがあるとしたら、まだ10年しか生きていないのに、もう80歳近いのクロの心は、まだ10歳なのか、それとも心も80歳なのかと考えるだけでも、クロと私たちでは、時間の流れがすごくちがうんだと、急に切なくなります。

2年間、体重も減らさず、淡々と生きてきたクロに私は尊敬にも似た気持ちが沸いてきました。クロとの時間をもっと大切にしようと決心しながら、クロの寿命という、不意に現れた重い現実に、私は急に精神が不安定になり、涙が出て、ずいぶん前から一切飲まなくなったビールを、1缶だけ買って、クロのそばで飲み干しました。クロは眠たそうな目で、じっと座っていました。

朝の座禅、老師の本

f:id:kuriedits:20210604211506j:plain

早朝、4時台、まだ夜の街灯の薄い明かりで街が霞みがかったようなオレンジ色をしているうちに布団から起き上がり、リュックを背負って寺に行き、お堂で座禅をするということを、この数ヶ月のあいだ何度か繰り返していて、座禅が終わったあとは、一駅分を南に歩いて、朝早くから開店している行きつけの料理店で朝食をとり、そこの外国生まれの店主と、すっかり暑くなってきましたねえ、最近はどうですか、などとたわいのない会話をして、そこからまた別のチェーンのカフェに入って、ノートパソコンを広げて午前中いっぱい仕事をするか、読まずに家で積み上げられていた医療雑誌業界紙を読むというのが、いつものパターンですが、一番心地良いのは、朝の境内の空気と座禅と朝食なので、それ以外はおまけのようなもので、眠い時は早々とカフェを切り上げて帰宅することもあります。

さいきん本棚を整理していると、やや埃をかぶった老師の本が薬学書と薬学書の間から出てきました。といっても、山村で生まれて寺小僧から叩き上げで名刹の管長に出世したこの老師は本を書くような柄ではないので、他者による聞き書きや対談の書き起こしではあるけど、老師の、老師らしい、飾らない、素朴な、世俗から離れて自分だけの道を生きてきた言葉の数々であることに間違いはなく、とくに、教えなどはどうでもよくて、とにかく坐禅をしなさいというような、あまりにみもふたもないようなくだりは、読んでいて思わずふふふと笑いがこみ上げてきます。そんな老師とはいえ、学問や信仰心を否定しているわけではなく、その証拠に、4年前の坐禅会の講義では「私の元に『宇宙から指令がくるんです』と悩みを持ってくる人がいる。私はその経験がないから『教えてくれ』と言う。みなさん、自分が抱える問題は自分で解決するしかないんです。座禅や信仰や学問は、その解決の一端になってくれるんです」と話していたから、しっかりと仏教徒なわけですが、老師の言葉は、禅において大切なのは物事を語るよりも坐ることであるという、只管打坐の原理原則に忠実で、身の引き締まるような思いをした私は、その本を読み返したその日から自宅のベランダで夜の座禅をまたやり始めるようになりましたし、早朝の座禅に出向くのが辛いときは、「大切なのは語ることではなく坐ること」という老師の言葉を思い返して、早起きにめっぽう弱い自分を奮い立たせています。