人気作家の橘玲さんは「幸福の『資本論』」の中で、仏教を独自の捉え方で意味付けしています。
仏教における煩悩は、突き詰めればすべて人間関係(社会資本)から生じます。仏陀は煩悩から自由になることを悟りと呼び、瞑想(マインドフルネス)などさまざまな精神技法を提唱しました。
しかし考えてみれば、究極のソロ充は、恋人や家族とのつながりを捨てる代わりに人間関係が生み出す面倒なこと=煩悩から自由になるわけですから、これは仏教の悟りと同じです。欧米や日本のような先進国では、ゆたかさ(お金)とテクノロジーによって、いっさいの修行なしに誰でも「悟り」の境地に達することができるようになったのです。
幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
- 作者: 橘玲
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なるほど、そういう見方もできます。さすが橘さんです。視点が鋭い。
ところで、この本を読んだ矢先の今日、座禅会では「第十則・清税孤貧」という話を紹介されました。老師は「『孤貧』というは何にもないという意味ですが、これこそ座禅の究極なんです」と言いました。
橘さんの悟り論は大変おもしろいのでケチをつける気はさらさらないのですけど、仏教というのは毎週老師の話を聞いていると、人間関係はおろか、所有欲や名誉欲からも解放されることを目標としているように思います。
ここでいう「解放される」というのは、人間関係も所有物も名誉もすべて放棄しろという意味ではありません(そういう意味もあるのかもしれませんが、ぼくはもっと広義の意味もあると思います)。そもそも、所有物(衣食住)を全て放棄したら、人間は生きていけません。
お金もテクノロジーも名誉も人間関係もなくても、人間は精神的自由を得ることができる。仏教が目指す悟りとは、そういうものな気がします。ゆたかさ(お金)とテクノロジーがないと精神的自由を得られないとしたら、それは悟りではないと思います。
人間は資本がなくても幸せになれる!という極論を言うつもりはありません。それはファンタジーでしょう。
ただ、資本には持つことで幸せになる側面と、捨てることで幸せになる側面の2面性があると思います。資本は捨てることでも幸せをもたらしてくれるような不思議な存在です。流行の「断捨離」もその一つでしょう。
写真は蓮の花です。