てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

「法界定印」を覚えれば座禅はできる。いつでも。どこでも。

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今日は座禅会を休みましたので、代わりに座禅の方法について書きます。

座禅中の手の組み方をご存知でしょうか。ときどき膝の上で手のひらを上に向けて置く人がいますが、これは瞑想のやり方です。

これはこれでいいのですが、座禅のやり方ではありません。

座禅では手を定まった形に組んで、ヘソの下の「丹田(たんでん)」と呼ばれる部位に置きます。

これを「印を結ぶ」と言います。

ぼくが習った最も一般的な印の結び方は、左手の上に右手を乗せ、親指同士をくっつけて(あるいは少し離して)輪っかを作る「法界定印(ほっかいじょういん)」と呼ばれる形です。

座禅の印の結び方には、もう一つ、「白隠流(はくいんりゅう)」という印もあるそうです。

印の組み方はイラストで見た方がわかりやすいのでこちらをどうぞ↓

www.sotozen-net.or.jp

 

ぼくは仕事の合間などに心を落ち着かせたい時は印を結ぶようにしてます。

座禅している時の気持ちを呼び戻すためです。高ぶった感情が少し落ち着きます。

座禅は長時間座らないとできないと思う人もいるでしょうが、心を落ち着かせるだけなら座る必要はありません。

椅子に座っても、外出先で人を待っている間でも、いつでもどこでも心をほぐすことができるようになります。これが座禅のいいところです。

ぜひ、やってみてください。

 

今日、久しぶりに大仏を見ました。冒頭の写真がそれです。その時気づいたのですが、大仏の印は「法界定印」でも「白隠流」でもありませんでした。

ググってみると、これは定印というそうです。なぜそういう形になっているのかはわかりませんでした。知っている人いたら教えてください。

資本は捨てると幸せになる!?「幸福の資本論」と仏教の関係

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人気作家の橘玲さんは「幸福の『資本論』」の中で、仏教を独自の捉え方で意味付けしています。

仏教における煩悩は、突き詰めればすべて人間関係(社会資本)から生じます。仏陀は煩悩から自由になることを悟りと呼び、瞑想(マインドフルネス)などさまざまな精神技法を提唱しました。

しかし考えてみれば、究極のソロ充は、恋人や家族とのつながりを捨てる代わりに人間関係が生み出す面倒なこと=煩悩から自由になるわけですから、これは仏教の悟りと同じです。欧米や日本のような先進国では、ゆたかさ(お金)とテクノロジーによって、いっさいの修行なしに誰でも「悟り」の境地に達することができるようになったのです。

 

なるほど、そういう見方もできます。さすが橘さんです。視点が鋭い。

ところで、この本を読んだ矢先の今日、座禅会では「第十則・清税孤貧」という話を紹介されました。老師は「『孤貧』というは何にもないという意味ですが、これこそ座禅の究極なんです」と言いました。

橘さんの悟り論は大変おもしろいのでケチをつける気はさらさらないのですけど、仏教というのは毎週老師の話を聞いていると、人間関係はおろか、所有欲や名誉欲からも解放されることを目標としているように思います。

ここでいう「解放される」というのは、人間関係も所有物も名誉もすべて放棄しろという意味ではありません(そういう意味もあるのかもしれませんが、ぼくはもっと広義の意味もあると思います)。そもそも、所有物(衣食住)を全て放棄したら、人間は生きていけません。

お金もテクノロジーも名誉も人間関係もなくても、人間は精神的自由を得ることができる。仏教が目指す悟りとは、そういうものな気がします。ゆたかさ(お金)とテクノロジーがないと精神的自由を得られないとしたら、それは悟りではないと思います。

人間は資本がなくても幸せになれる!という極論を言うつもりはありません。それはファンタジーでしょう。

ただ、資本には持つことで幸せになる側面と、捨てることで幸せになる側面の2面性があると思います。資本は捨てることでも幸せをもたらしてくれるような不思議な存在です。流行の「断捨離」もその一つでしょう。

写真は蓮の花です。