てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

全国でも珍しい禅の博物館「駒澤大学 禅文化歴史博物館」に行ってきた

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日本の禅の歴史を学べる『禅文化歴史博物館』に行ってきました。仏教に関する資料館や展示会は国内に数あれど、こと『禅』に特化した博物館は全国でも珍しいでしょう。一度は行きたいと前々から思っていました。

禅文化歴史博物館は東京目黒区の駒澤大学の敷地内にあります。駒澤大学の前身は、明治15年に開校した曹洞宗大林学専門学校です。もともとは文禄元年(1592年)までさかのぼる、曹洞宗が禅の研究と実践を行う学校だったそうです。そのため総合大学となったいまでも『仏教学部禅学科』というユニークな学科があります。卒業すると学士(禅学)が得られるそうです。

www.komazawa-u.ac.jp

・・・というような歴史を知ったのは今日の事ですが、まあ、禅文化歴史博物館は以前から興味がありまして、本日は御日柄もよく絶好の訪問日和となりました。大学に隣接する駒沢オリンピック公園は歩いてて気持ちよかったですね。

 

さて、禅文化歴史博物館。”博物館”というにはやや大げさな小ぶりの建物ですが、資料は充実しています。国内の禅の歴史、曹洞宗の歴史、さらに禅と茶道・華道・庭園・水墨画、文学など禅とその周辺文化が広く紹介されていました。

個人的には次のエピソードがおもしろかったですね。

日本の代表的な調味料である味噌と醤(醤油の原型)は、中国、朝鮮から伝わり、8世紀ごろには日本でも製造されていた。日本国内で定着し普及したのは、無本覚心(1207~98)が浙江省杭州の径山寺(きんざんじ)で造法を修得したという世に言う金(径)山寺味噌である。

 

水墨画は)外面的な形似を否定し、対象の本質を内面的にとらえたものである。また水墨画には、下書きがなく、精神を集中して構図を決め、気を満たして一気に書き上げる。この姿勢は、禅の教義と相通ずるものがあり、日本の禅林で大いに受け入れられた。

禅と文化の関係が多岐にわたって解説されているので、新しい分野に興味を持つことができると思います。

館内には木魚や鐘が展示されていて自由に鳴らすことができます。今日は私以外の入館者がいなかったので、1人でひたすら木魚を鳴らしました。ぽくぽくぽくぽく・・・・叩き放題です!

これから春に近づくにつれて、お隣の駒沢公園は190本のソメイヨシノサトザクラなどが咲く桜の名所になります。お花見ついでに禅文化歴史博物館まで足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?入館無料。もちろん学外のどなたでも利用できます。

www.komazawa-u.ac.jp

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『超越と実存』を読みながら思った「『言語化スキル』は本当に重要か?」

 

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

 

言語化スキル」の過大評価

ものごとを言葉にする、いわゆる「言語化」というビジネススキルが、仕事をする上で役立つことは言うまでもないでしょう。

モヤッとした感情や状況を言語化することで、物事の論点がハッキリして、的確な指示や解決策が出せるようになります。

私は大学卒業以来、いちおう”言葉”を生業とする仕事をしてきましたので、言語化という作業が苦痛ではありません。職場でも、言語化が大好きで得意な人たちと仕事をしてきました。

ところが、あるときから、言語化を得意としない人たちと仕事をするようになり、とても戸惑い苦労したことがあります。「言語化の重要性はビジネスパーソン共通の考え」だと思っていました。しかし、そうではない。言語化に価値を置かない人たちが沢山いることを知りました。しかも彼らの仕事の能力は低いわけではなく、極めて高いこともあります。『言語化できることと、職能の高さは、まったく比例しない』ことを痛感すると同時に、私自身が「言語化スキル」を過大評価していたことに気づきました。

言語化の価値が落ちていく

ここ数年、坐禅をするようになり、私の中で言語化という行為の価値がじわじわと落ちています。坐禅は語るものではなく実践するものです。坐禅をいくら語ったところで、実際にやってみなければその価値はわかりませんし、またその価値を言語化したところで、坐禅の実践者にとってはあまり意味がないと感じます。

さて、今回、現役僧侶の南直哉さんの著書『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』(小林秀雄賞受賞)を読み「言語化」について考えさせられました。

南さんは、道元の『正法眼蔵』の一説、

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」

を紹介し、その意味を次のように説いています。

我々の「問い」は、「〇〇とは何か」となされるのではなく、それが「何かわからない」ままに、「〇〇はどのようにあるのか」となされなければならない。このことを、右に引いた正法眼蔵の引用文は言っているのだ。「自己をしるなり」ではなく「自己をならふなり」とあるのは、自己が「何であるか」ではなく、「どのようにあるのか」、その在り方を仏教の実践として習得すべきことを教示しているからである。

「何であるかわからないもの」とはすなわち、「そのようにある」根拠を欠くものである。それはまさに「無常」として、根拠を欠いたまま存在する事実、すなわち「実存」を意味することになる。

これはヨーロッパ発祥の哲学『実存主義』『現象学』に関わる考え方だと思うのですが(学生時代に何冊か読みましたが覚えてません)、それを坐禅という私が興味を持つフィールドで語ってくれているので、親しみを持ちながら読むことができました。

 

本書は仏教史を超越と実存で語るという試みです。思考を刺激する論が次々と登場し、読み応えがありました。

坐禅に興味がある人におすすめの一冊です。