「言語化スキル」の過大評価
ものごとを言葉にする、いわゆる「言語化」というビジネススキルが、仕事をする上で役立つことは言うまでもないでしょう。
モヤッとした感情や状況を言語化することで、物事の論点がハッキリして、的確な指示や解決策が出せるようになります。
私は大学卒業以来、いちおう”言葉”を生業とする仕事をしてきましたので、言語化という作業が苦痛ではありません。職場でも、言語化が大好きで得意な人たちと仕事をしてきました。
ところが、あるときから、言語化を得意としない人たちと仕事をするようになり、とても戸惑い苦労したことがあります。「言語化の重要性はビジネスパーソン共通の考え」だと思っていました。しかし、そうではない。言語化に価値を置かない人たちが沢山いることを知りました。しかも彼らの仕事の能力は低いわけではなく、極めて高いこともあります。『言語化できることと、職能の高さは、まったく比例しない』ことを痛感すると同時に、私自身が「言語化スキル」を過大評価していたことに気づきました。
言語化の価値が落ちていく
ここ数年、坐禅をするようになり、私の中で言語化という行為の価値がじわじわと落ちています。坐禅は語るものではなく実践するものです。坐禅をいくら語ったところで、実際にやってみなければその価値はわかりませんし、またその価値を言語化したところで、坐禅の実践者にとってはあまり意味がないと感じます。
さて、今回、現役僧侶の南直哉さんの著書『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』(小林秀雄賞受賞)を読み「言語化」について考えさせられました。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」
を紹介し、その意味を次のように説いています。
我々の「問い」は、「〇〇とは何か」となされるのではなく、それが「何かわからない」ままに、「〇〇はどのようにあるのか」となされなければならない。このことを、右に引いた正法眼蔵の引用文は言っているのだ。「自己をしるなり」ではなく「自己をならふなり」とあるのは、自己が「何であるか」ではなく、「どのようにあるのか」、その在り方を仏教の実践として習得すべきことを教示しているからである。
「何であるかわからないもの」とはすなわち、「そのようにある」根拠を欠くものである。それはまさに「無常」として、根拠を欠いたまま存在する事実、すなわち「実存」を意味することになる。
これはヨーロッパ発祥の哲学『実存主義』『現象学』に関わる考え方だと思うのですが(学生時代に何冊か読みましたが覚えてません)、それを坐禅という私が興味を持つフィールドで語ってくれているので、親しみを持ちながら読むことができました。
本書は仏教史を超越と実存で語るという試みです。思考を刺激する論が次々と登場し、読み応えがありました。
坐禅に興味がある人におすすめの一冊です。