てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

ラジオの時間

台本通りに行くことは、まずないですよ。ラジオは番組が始まると、構成作家さんの事前の警句通り、台本なんて始めからなかったみたいに進みました。直前まで自宅で考えていた回答予習の中身は、私の中からすぐに消えて、20分という生放送の8割以上を、アドリブで、予測不能の波に乗るように泳ぎ続けました。そんな、どう考えてもうまくいくはずのない素人の私の、生まれて初めて出演したラジオ番組が、「リスナーからも好評でした」と構成作家さんから教えてもらえたのは、やはりニッポン放送という日本を代表する放送局の実力なのだと、今振り返っても感心します。

本日、ニッポン放送の「辛坊治郎ズーム!そこまで言うか!」という番組に、私は生出演して、20分ほどかけて、自分の仕事である市販薬についてお話しました。

東京駅の1つ隣の有楽町駅から歩いてすぐのニッポン放送本社ビルの4階のスタジオでおこなわれた収録は、夕方でした。連日続く蒸し暑さを分け入るようにして到着したビルで、私は1階の受付で4階に誘導されました。上階に到着したエレベータのドアが開くと、狭くて薄暗い機械だらけの部屋でタバコをふかすサングラスのディレクターがいるような、私の勝手なラジオ局像とは打って変わって、赤や緑のカラフルに彩られた遊び心のある、どちらかというとちょっとかわいい、そしてゆったりとしたオフィスがあって、そこにおしゃれな女性スタッフが来て小さなブースに案内してくれました。

こんにちはと言って前日にズームで打ち合わせした構成作家さんが挨拶に来て、今日はよろしくお願いしますと、簡単に挨拶し、A4紙数枚の台本のような進行表を提示してくれました。全体の進行手順が書かれている紙は、前日の打ち合わせを元に作られたもので、今朝メールで送られていた内容に少し修正が加えられていました。

「でも、辛坊さんは、台本通りにはなりませんから」 。構成作家さんが、笑いながら何度目かの念押しをするので、もうなるようにしかならないなあと思いながら、構成作家さんが去った後のブースで一人、静かに座っていました。私が出演する予定の番組は、もう始まっていて、辛坊さんと、アナウンサーの増山さんの声がフロアに響いていて、私はどんどん不安が募って、自分はどうしてここにいるんだろう、という気持ちを抱えながらじっとしていました。

緊張を和らげるために、座りながら密かに法界定印を両手で結んで、座禅している時の気持ちで深呼吸しました。

出演予定時刻の16時10分の直前になって、ようやく、声がかかって、薄暗い部屋に通されました。たくさんのレバーがついた仰々しい機器が鎮座する狭い部屋の中で、4〜5名の若いスタッフさんたちが一斉に私の方を見て、私はペコペコと頭を下げながら、その奥に透明のガラス板で仕切られた放送室の中に構成作家さんとアナウンサーのかたが座っているのを眺めました。そこで私は、もうこんな愉快な経験は二度とないだろうということ、人生は楽しんだほうがいいんだということにして、腹をくくって、促されるままに奥の部屋に足を進めました。この日、大阪からモニター越しの参加になった辛坊さんが斜め向かいに、私の左にアナウンサーの女性、目の前に構成作家さん、という配置で、放送が始まるまでのわずかな時間の間、まるで授業参観に来た母親を見る子供のように私は何度も不安そうに構成作家さんをチラチラと見て、その度に構成作家さんは笑顔を返してくれました。 最初に、辛坊さんが私のことを紹介してくれて、「もっとおっさんが出てくると思ったのに、シュッとした若い人で驚いた」というような話で場を和ませたあと、私に最初の質問がきて、最初の一言を発する時、私はマイクに添えた自分の左手が震えていることに気づき、ああ緊張しているな、大丈夫かな、と思いながら、話し始めました。予定通りというか、事前に用意された台本はほとんど無視されて、でも、私が慌てることのない範囲で辛坊さんは書籍に沿った質問をしてくださり、笑いを交えながら番組は進んでいきました。最初の緊張はすぐになくなって、私はまるで自分が、高校の放送部で、放課後の放送室で学友たちと話しているような、懐かしく楽しい気持ちになりました。でも、そうやって無邪気な気持ちでいられたのは、伝えたいことが溢れて猪突猛進のようにしゃべり続ける私の話が、ついつい長くなって、リスナーの集中力が途切れそうなとき、そのたびに何度か辛坊さんと増山アナウンサーが割って入ってくださったこと、私の説明の足りない話を、枝を継ぐようにして高いところまで届くように話を引き取ってまとめたり、本当は知っているであろうことも、辛坊さんが驚きの声色で相槌を打ってくれたことのおかげであって、無我夢中で自分のことしか見えない私が、プロフェッショナルたちの話芸に手取り足取り支えられて舞台で踊っていたことに気づいたのは、すべて番組が終わってからでした。これは、文章書きにも言えることですが、文章が上手い人ほど、他人にはさらっと書いているように見えるもので、それは話芸も一緒であることを、私は理解しました。

私の出番が終わって、放送室を出ると、部屋の中央の巨大な機械の前に座っていた一番歳の高そうな男性が、「お疲れ様でした!良かったです」とこちらがびっくりするくらいの声で突然言って、わっと思ったけど、とても嬉しかったです。何度も頭を下げて、その場を後にしました。

 

ニッポン放送のある有楽町駅周辺は、私にとって懐かしい場所です。まだ私が若かった頃、20代の半分以上を、私はこの場所で過ごしました。有楽町駅から銀座に連なる大通りは、仕事場に向かう毎日の道で、老舗と現代的な店がモザイク状に並ぶ無数の小さな脇道を歩いても、辛く苦しかった当時の仕事や、怖くて仕方なかった上司、愉快な同僚たちの笑顔、先生と慕った人たちとの会話が思い出されます。そんな有楽町という街に、今日、ラジオ出演という素敵な思い出が一つ加わったことに、感謝を申し上げます。銀座のスターバックスリザーブにて。

さよなら、愛しのうさぎさん

朝、目覚まし時計が鳴るよりも早く、ふと目が覚めて、もう少し寝ようかと思ったけど、すぐにうさぎのクロのことが頭をよぎりました。クロ、体調悪いんだ。起きて、様子を見なきゃ。リビングのケージを覗き込むと、うさぎはじっとしてました。少し前に突き出た右の前足に頭を乗せるように首を大きく傾かせ、体は伸びて寝そべっているのに、目だけがぱっちりと開いている。珍しい格好。でもちょっとかわいいな。まだ寝ている妻にあとで見せようと思って、スマホで写真を撮りました。それから、おはようクロ、といって、頭を撫でました。ところが、いつもなら、鼻を上げて、自分からスリスリとしてくるのに、どういうわけかピクリとも動きません。

どうしたのクロ、と呼びかけながら背中を撫でても反応がありません。緊張しているのだろうか。体調が悪いのだろうか。まるで魔法にかかって、一夜の間に剥製になってしまったかのようなクロ。もう一度呼んだ名前は、大きく見開いた黒い目に音もなく吸い込まれていくようでした。そこで私は、今振り返っても、ようやく、としか言いようがないほどの時間をかけて、クロの命が尽きていることに気づいたのでした。息をのみこみ、頭が真っ白になり、寝室に走り、詰まるような声で妻を呼びました。クロが死んだ・・・かも・・・。

まだ体が温かい、死後硬直だね。そう言いながら、棒のように横にピンと伸びたまま硬くなったうさぎを抱きかかえる妻の悲しそうな姿を見ても、私は実はまだ生きているのではないかという気がしていました。確かに、反応はないけど、ひょっとしたら病状が悪化して、神経が痛んで、体が動かないだけで、意識はあるのかもしれない。手を触ったり、呼びかけたり、撫でたりしながら、確かめました。 なぜなら、前日までの私は、クロはもっと生きると思っていたからです。6月5日、日曜日の朝7時半のことでした。

振り返れば4月の最後の日、季節外れの冷え込んだ朝から体調を崩したクロは、わずか1週間で、ほとんど何も食べられなくなり、私は仕事の合間や休日に動物病院に通う日々で、お金も時間も、あっという間になくなっていきました。薬や、高カロリー食を水で溶かし、スポイトで無理やり与えるという生活が2週間続き、そして、体調が少し良さそうな日と、悪そうな日を繰り返し、一進一退の回復を続ける日々。しかし、3週間を過ぎたころから、食欲が本格的に回復して、これはひょっとすると、持ちこたえそうだと、私は密かに思っていました。

食欲不振の峠を越えたクロは、私たちの姿を見るとケージの中で勢いよく跳ね上がり、万歳の恰好をして餌をせがみました。とにかく草の一つでも多く食べさせなければいけないと思っていた私は、ペットショップで数種類の餌を買い込んで、何かの動物実験のように、これは食べた、これは食べない、と餌やりの検証をするようになりました。

ある日、安定しないクロの食事に、なにか次の手はないかと、家のすぐそばの大きなペットショップをうろついていると、チモシーの栽培セットを見つけました。ちょっと面白そうだな。好奇心を掻き立てられて購入し、ペットショップを出たところで、偶然、夕飯の買い物を済ませた妻に会い、「チモシーを育てて食べさせてみることにした」と買い物袋から栽培セットを取り出して見せると、わたしもクロように草を鉢で買おうと思っていたからちょうどいいね、と言いました。ところが、家でフタを開けると、中の説明書にチモシーが育つまでに4週間もかかると書いてあるではないですか。4週間!?1ヶ月後もクロが生きている確証が全く持てないわたしが、そのことを妻に話すと、妻は思い出したように「そういえば、クロが死んだら、火葬する?お墓は?」と言い、ああ、一応決めておかないといけないな、と思いながら、行政に渡せばいいんじゃないかな、と話すと、妻も、まあ、そうだね、と言いました。

劇的に回復したクロの食欲は、我が家の一大事で、私たちを大いに喜ばせました。ちょうど私が神社にお参りをして、クロのことをお願いした前日からだったと記憶しています。そこから先は、下痢は時々するものの、食欲は旺盛で、水もよく飲みました。

ところが、です。 食欲の改善と入れ替わるように、病後、弱り気味だった後ろ足の自由がきかなくなっていったのが、このころでした。ある朝、いつものようにクロをケージから出して、リビングに置くと、ベランダに向かって走ろうとするのに、後ろ足の踏ん張りがきかず、まるで水面でもがくカエルのように、フローリングの上をはうように手足をバタバタとさせて力尽きてしまう、ということがあり、私はあまりのショックに、ええええ、と自分でもよく分からない声が思わず口から出ました。そこからは、もう、急な坂道をただ転がるように、クロの体は動かなくなっていき、ついに、ケージの中のトイレの、わずかな段差さえも自力では上がれなくなりました。

クロが生きた最後の1週間は、あっという間でした。

5月30日月曜日、テレワーク中の妻が昼休みに病院に連れて行ってくれました。脱腸のような赤い肛門のケアや、足のリハビリの方法を教えてもらい、新しい薬をもらいました。 木曜日、トイレにいけなくなったクロのために、私は朝からタオルを買い込んで、せっせせっせととりかえてはタオルを手で洗って、を繰り返しました。夜、まるで人間が、腹痛で唸る時のような、クゥゥゥという声でクロが鳴き始め、私は慌てふためきました。痛いのか、どうなのか、まるでわかりません。そばで見守っているうちに、ほんの30分ほどに感じられた時間は、気がつくと3時間が経っていました。

一夜明けて、金曜日に受診し、注射と点滴。鳴き声は、肺に異常がある可能性があるのでレントゲンを撮った方がいいかもしれない、というのが獣医の見立てで、一夜明けて土曜日、レントゲンを撮ると、肺に異常はなかったけど、背骨が変形していると、獣医は説明しました。足の不自由は背骨の状態が原因で、元に戻るのは難しいかもしれません。

介護が必要になる。私も妻も、そう覚悟しました。でも、私はちょっぴり、動けなくなったクロを一生懸命お世話するのも、嫌じゃないというか、それどころか妙にワクワクし始めて、病気になる前よりも、ずっとクロが愛しく思えました。あと数ヶ月の命かもしれないのだとしても。その日も、夜になると、クロは奇妙な声を出しました。いつでもラインで状態を教えてくださいね、と言ってくれた獣医に翌朝報告しようと、その様子を動画に撮りました。そして、それが、生きているクロを収めた最後のデータになりました。

妻とは以前話していた通り、クロの遺体は行政に引き取ってもらおうとしましたが、日曜日の役所は休みです。じゃあ、月曜日に電話すればいいか、と妻に相談しましたが、だんだん、妻のほうが、やっぱり、しっかりクロを見送るために業者にお願いしたいと言い始め、業者を呼ぶことにしました。二人で、クロの体を拭いて、妻は花を買ってきて、人参の葉と一緒に、クロのそばに添えました。健康な時はややでっぷりしていた黒い体は、ふた回りほどしぼんで、片手をお腹に入れて簡単にすくい上げられるような軽さになって、背中を撫でると凹凸のある背骨が手のひらに伝わってくるようになったのは気のせいではなく、去年まで2キロあった体重は1.3キロに落ちていたことを物語っていました。

獣医にラインで訃を伝えると、お手紙を書いて見送るといいですよ、という返事がきて、私は、そんな手紙だなんて、ちょっと感傷的過ぎじゃないかと思ったけど、その言葉に従い書くことにしました。でも、書くことで、クロへの感謝が、自分の中でしっかりと言葉にすることが出来ました。妻も、書きました。 クロの寿命を、私はあと数ヶ月先、妻は1〜2週間先、と見込んでいた私たちにとって、そう覚悟を決めた翌朝にクロがなくなることは、まるで想像もしていませんでした。私にとっては、まるで、時刻を間違えて、うっかり飛び乗ってしまったバスのように、クロは本来乗るべき便よりも、ずっと早く遠くへ行ってしまったように思えました。私は置いていかれたような気持ちです。

夜、会社から帰ると、業者への引き渡しは妻が全て終わらせてくれていました。クロの遺体が埋葬されるという千葉県のある寺のパンフレットがテーブルに置かれていました。いつか、その寺に手を合わせに行きたいな。私がそういうと、妻も「私もそう思った。クロの魂はそこにはないかもしれないけれど、体があるなら」と賛同しました。

翌日、大量の草、ペレット、マットやタオルなどを片付けて、がらんとしたケージを見ながら、私は、下宿していた男の子が出て行ったような、取り残されたような寂しい気持ちになりました。そのことを聞いた妻は、下宿かあ・・・それいいね、と私が驚くほどの笑顔を見せて言いました。だって、下宿した人とは、もう会うことはないけれど、どこかで元気にしていると願うことはできるのだから。