てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

人生の自由

東京が栄えていることをしめす、ひとつの証拠のようなものが、夜の羽田から飛び立つ飛行機から見える、宝石箱のようにきらびやかな夜景にあるように思います。羽田発、山形行きの最終便に乗ったのは20時過ぎ。わずか一時間という空路にしてはあまりにも短いフライトは、なにをするにも中途半端で、なにも見えない真っ暗な窓の外をぼんやりと眺めて、ヒマをもてあそぶことになりました。

インドの治安の悪い寝台列車に揺られながらなにもない平原をどこまでも走ったり、日本の片田舎の駅で人目も気にせず身を縮めて野宿をしたりといった、若いころの勢いに任せただけの旅行を好んだ時期がありました。でも、大人になったわたしは、ちゃんとしたホテルを事前に予約し、あまりお金の心配もせず、今はこうして、ごくふつうの旅をしています。

スマホ内の写真を少し整理しよう。ふと、そう思ってスマホを取り出すと、自動機能で過去の写真がパラパラと映し出されました。今年夏前に死んだウサギのクロの、まだ元気だった頃の写真がたくさん出てきました。クロは10年ちょっと生きて、この世からいなくなりました。きっと、あっという間だったろうな。わたしも、これから坂道を下るように体も頭も鈍くなり、心身の小さな不自由がたくさん積もって、できないことがどんどん増えていくんだろうな。そんな感傷的な気持ちになりました。若いころは楽しめたことも、今ではもう楽しめない。仕事の裁量は増えて、お金も増えて、一人で行ける場所も増えたのに、人生の自由な感覚は若いころよりも減っている気がするのはなぜだろう。禅は人生の自由をどう考えるのだろう。

飛行機が着陸して、飛行場の外を一歩外に出ると、真っ暗な夜の空間から、わたしの好きな木や土の匂いが漂ってきてきました。叩きつけるような雨が降る中をバスが走り、自然に囲まれた美術館のようなホテルに着くと、露天風呂の温泉に入り、その後ホテルの見所である図書室を覗きました。あ、これ、読みたかった本だ。社会学者の本を手に取り、でも、もう今日は眠いから明日にしよう、とふかふかのベッドに潜り込みました。

ムダな悩み

境内を流れる狭い水路のそばの苔の生えた小さな岩の群れの上に、収穫を迎えた梅の実がコトリと落ちていました。まだ7月だというにはあまりにも暑い、猛暑続きだったこの夏の始まりに、久しぶりに朝の座禅会に参加したのは、ちょうど今から1月ほど前のことで、今振り返っても本当に厳しい暑さでした。朝5時前でも、空はもう十分に明るくて、家を出るとすぐに体が汗ばみ出しました。熱暑のせいで参加者のまばらな座禅会は、熱を含みまったりとした重い空気に包まれながら始まり、いまいち集中できないまま坐禅を組む私のもとには、この日、すぐに一つの後悔が襲ってきました。

一匹の蚊が、私の周囲を飛び始めたのです。

虫除けスプレーをしてくるんだった。印を結んでいる私の左手の上をつかず離れず飛び回っていた蚊は、次第に首筋の方に向かい、耳元で不快で不吉な音を立てながら、ずっとウロウロとしていました。そのうち、産毛が反応する微かな感触にいたたまれなくなって、そっと目を向けると、蚊は私の手に止まっていました。じわじわと、かゆみが襲ってきました。結局、私は蚊の上陸もなんども許して、その度に座禅の集中は途切れ、不本意な気持ちで寺を後にしました。

しばらくして、きっとあちこち刺されているだろうと不安だった虫刺されは、実は一つもありませんでした。なあんだ。オスの蚊だったのかも。私は刺される心配のない蚊に、気を揉み、時間を無駄に費やしていたのでした。

過去は考えない。未来も考えない。今、この時だけに己を置く。坐禅の基本を思い出しました。