てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

「坐禅でおごる」という過ち

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旅行先のホテルの部屋から撮影した海です。根をつめて仕事をしていたので、いい気晴らしになりました。

仕事はオンオフが大切です。心労を引きずると自分を見失う。他者を見失う。いいことはありません。

実際、こんなことがありました。ある日、職場の部下のひとりが仕事上のミスをしました。ミスの原因を聞くと、どうやら”私生活に問題”があるようでした。その問題のせいで仕事に精彩を欠いていました。そこで、”私生活の問題”を解消するために何かしているのかと訊ねると、特に何もしていませんという返事。わたしは呆れてしまいました。

そのときわたしは、心の中でこう思いました。

「自分は日常生活に坐禅を取り入れるなどして、コンディションを高めるための工夫をしている。そういう工夫をしないこの人は努力が足りないのではないか」

そう思って、次の瞬間、ハッとしました。これはいかん。あかん。おごりだぞ。

「わたしは坐禅をしているから」

などと言いだしたらお終いです。坐禅は他人との優劣を比べるための道具ではありません。わたしが誰に言われるわけでもなくやっている、わたしだけの営みです。

わたしがやっている努力を、部下が等しく行う必要はありません。

1週間休みなく働いたり、残業が何十時間にもなったり、仕事疲れが溜まってるのでしょう。思考が濁る。おかしなことを考えだす。「坐禅をしてるから」と、意味不明なことを言い出す。

気付けば忙しさを言い訳に坐禅をサボり気味でした。ここ数日、気を引き締め直して、ふたたび坐ってます。もうすぐ11月。冷たくなった夜風の中で、冬用のあったか作務衣で身を包みながら。

柳は緑、花は紅。お前は何?

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坐禅会に行ってきました。徐々に日が落ちるのが早くなるこの時期は、坐禅が終わるとちょうど写真のように夜のとばりが下りるころで、空が複雑な色合いに染まります。月もとてもきれい。

今日の坐禅会は老師は欠席でした。足の手術をしてから坐禅会で見たことがありません。数週間前に、車いすで境内を移動する老師を見かけました。心配です。

老師の代わりにベテランの僧の方が会を仕切りました。

今日は気温が高く坐禅中もちょっと蒸し暑く感じました。時々吹き込む外からの風の涼しいこと、心地良いこと。ついついウッツラウッツラ・・・寝てしまいそう。

坐禅が終わると、僧の方が、

「柳は緑、花は紅といいますが・・・」

と話し始めました。柳は緑色、花は紅色。そんな当たり前のことに美しさを見出すことを思い出してみてはどうか。坐禅中に吹く風のなんと気持ちのいいことか。坐禅をして、ふだん忘れている大切なことを見直すきっかけにしてほしい。・・・というようなお話でした。

あとで調べたところでは、『柳は緑、花は紅』は禅語だそうです。

柳はあまり前に緑、花はあまり前に紅。そこでふと思いました。では、わたしは何だろう?当たり前のわたしとは?

禅の世界では、”わたし”というものは存在しないと考えます。生物学的にいっても、わたしというものは刻一刻と変化します。「わたしは何か」と考えても、自分には上手な答えは出せそうにありません。さてどうしよう。

そうだ、「わたしはどうあるか」についてなら、表現することができそうだ。

夕空を見てきれいだなと感じるわたし。車いすの老師を心配するわたし。坐禅中に寝てしまうわたし。あたりまえのわたしとはなにかを考えてしまうわたし。

これがわたしです。気が付けばわたしは、こんなエモい内容のブログを書いて、今日も充実した一日を過ごすことができました。

命があり、当たり前のわたしを過ごせたことに、感謝しようと思いました。