てらがよい日記

お寺という名の異世界に通って感じたこと

東京国立博物館『最澄と天台宗のすべて』に行って来ました

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東京国立博物館で開催中の『最澄天台宗のすべて』に、朝から行って来ました。コロナ禍ですので、入館は事前予約制。おしゃべり禁止。2100円。

tsumugu.yomiuri.co.jp

平日ということもあってか、おじいさんおばあさんが多い会場の中で、若い人の姿もちらほら見えたのは、先ごろ完結したおかざき真里さんの漫画『阿・吽』のおかげかもしれません。

お土産売り場で、私は阿・吽オリジナルクリアファイルを買いました。おかざきさんの絵が好きな奥さん用に。この漫画は女性に人気があるような気がします。そいういえば、会場の若いお客さんも、男性よりも女性が多かったような?

特別企画展『最澄天台宗のすべて』は、最澄の生涯と天台宗の歴史が40分くらいでサクッとわかる展示内容です。今までよく知らなかった天台宗という宗教と、この教学がどうやって日本国内に普及していったのかを知るには、かっこうの機会でしょう。情報量はかなり多いので、博物館を出た頃には頭がパンパンになってしまいましたが。

天台宗って、意外と身近な存在のようです。まず、この東京国立博物館がある上野公園自体が、元々は天台宗の寺である寛永寺の敷地であったということ。そしてこの寛永寺は、江戸時代に天海によって建立されたこと。どちらも知りませんでした。天海って、ほら、漫画の『あずみ』とかに出てくる、謎多き高僧なわけですが、天海は天台宗だったそうです。知らなんだ。

最澄が開いた比叡山延暦寺は、日本の仏教の総合大学のようなところでして、比叡山からは、浄土宗の法然浄土真宗親鸞曹洞宗道元臨済宗栄西日蓮宗日蓮など、歴史の教科書でおなじみの僧侶たちが巣立っています。だから、歴史上の人物は、ずいぶんと天台宗と関係しているというわけです。

日本では、天台宗最澄が作った、というイメージがとても強いでしょう。でも、天台教学自体は最澄よりも以前にあった、大乗仏教の経典「法華経」をもとにした中国の教えです。中国の偉い僧侶だった智顗(ちぎ)という人が天台宗の開祖だそうで(中国でも天台宗と呼ぶのかは知りませんけど)、これを学びに最澄は中国の天台山という霊峰に留学し、そこで教えを学び、帰国後に日本の天台宗を開いたようです。

最澄がこうして歴史に名を残している理由は、日本で天台宗を開いたということや、南都六宗と呼ばれる既存勢力と衝突したドラマ性や、はたまた真言密教を開いた空海との対比や、色々あるようです。でも、私はこの博物館を見て、とっても人間くさい、大変苦労の多い人生だったようだなあという気がしました。『阿・吽』の劇中描写を見ても、空海と比べると、笑顔が出てこない気がします(笑)。

最澄比叡山にこもって、世捨て人のように、一人静かに悟りを開いた、というような人ではなく、むしろ仏教界の既存のルールを変えようとして、権力者に何度も働きかけながら、反対勢力と争いながら、そして弟子の育成に四苦八苦しながら、というまるで、現代でも会社の中にいそうな、というか、スケールこそ全然違いますが、どこの会社にもいそうな部門長や中間管理職者の姿を思い浮かべました。

博物館の資料を見る限り、その後、天台宗が広く世の中に広まったのは、最澄以後の仏僧たちの働きぶりが大きいような印象を持ちました。最澄は偉大でしたけど、それをしっかり広めていったのはまた別の僧たちだったようです。それから、比叡山名物で、飲食も寝ることも許されない超過酷な修行「千日回峰行」を作ったのが、「相応」という仏僧であることを初めて知りました。あのチート級の荒業を作ったのは一体どんな人なのか。博物館に飾られた人物像は、小さな目を開いた、ちょっと癖のありそうな姿でした。

この特別展は東京を皮切りに、年をまたいで関西でも開催されるようです。ご興味ある方は、ぜひいって見てください。

千日回峰行についてはこちらをどうぞ↓

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葬儀屋と夏の思い出

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9年前、市中病院のベッドの上で、たくさんのチューブにつながれた父が静かに息を引き取ったとき、不思議とそれが、昼だったのか、夜だったのか、覚えていません。ただ、そこからは全てが慌ただしく、私は悲しみに暮れる母の代わりに親族に頭を下げたり、右も左もわからないまま葬儀屋に電話をかけたりして、親族の重苦しい視線を回避するように、残された家族を何かから守るかのように、とにかく必死でした。そして、たしか深夜になって、連絡のついた葬儀屋に向かうために妹と母と一緒に乗り込んだタクシーで、ヘッドライトを照らしながら走る場所もしれない夜道の続く先が、我が家の未来を暗示するかのように、どこまでも深い闇に覆われていていたことだけは、今も鮮明に記憶しています。

タクシーが止まった先は、プレハブ小屋のような葬儀会場を兼ねた葬儀屋でした。ただ広いだけの、がらんとした、そのくせ妙に天井の高い殺風景な建物内の部屋の隅に、4〜5人がけのテーブルとソファが申し訳程度に置かれていて、そこに私と母と妹は並んで座りました。葬儀屋の、私よりも少し年上に見える男性が、そつのない口調で色々説明をし、それを私たちは、まるで学校の先生と生徒のように、ただ聞いているだけでした。ただ、宗派はどうしますか?と聞かれた瞬間は、3人で顔を見合わせて、さあどうしようかと悩みました。父方の祖母の葬儀も、母方の祖母の葬儀も、それぞれ異なる宗派で、自分たちも無宗教です。父の死はどこかで覚悟はしていたけれど、まさか宗派の選択を迫られるとは全く想像もしていなかったのです。どこでもいい、というのが3人の本音であり、私が「宗派によって何が違うんですか?」と聞いたのか、あるいは3人の困った顔を見て、葬儀屋の男性が口を開いたのか、覚えてはいませんが、男性が「浄土真宗というのは、死を不吉なものとして捉えないんですよ」というようなことを言って、その一言で、私たちは、そんな宗教があるのかと驚き、そして不治の病に冒されて延命することなく自らの死を受け入れようとしていた父のことを思い出し、全員一致で浄土真宗に決めたのでした。その後、葬儀屋が手配してくれた僧侶に会うことになり、その僧侶は私の中の僧侶へのイメージを一変させるような、素晴らしい人で、以後何度かお世話になるのですが、それはまた別の話になります。

そのときから9年経ち、今年も、父を失った夏を迎えました。妹は海外に、母は一人暮らしで、私と妻は、久しぶりに二人だけで父の墓に花を手向けました。墓地は電車とバスを乗り継いで、少し坂を上ったところにある西洋風の霊園で、エメラルドグリーン色の、一部の隙もないように整えられたコニファーの木々と、遮るもののない広い空が、どこか異国を思わせるような場所で、ただ、この日の空は真っ青で、ひどい暑さでした。この場所に来る時は、いつも夏雲が立派で、青空で、同じ風景だけど、それが妙に安心感を与えてくれます。

9年前のあの日、闇夜をひた走るタクシーの中で、このままタクシーが、どこか恐ろしい異世界へ自分たちを連れ去ってしまうのではないかと思うほど、不安な気持ちでいっぱいだったのに、私たち家族の人生は、川の流れのように過ぎてゆき、今は全てが過去のことになっています。

夏の容赦のない強い日差しの中でギラギラと輝く灰色の暮石の屈強さや、灼熱の気温の中でも衰えを見せない緑の芝の生命力が、泉下に眠る父の決して幸せだったとはいえない仄暗い最期と比べて、ひどくちぐはぐなように感じました。

 

※墓参りは緊急事態宣言前のことです